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鳥羽上皇の皇后。名は得子。父は藤原長実,母は源俊房の女方子。鳥羽天皇の譲位後,その宮に仕えて寵を得,1139年(保延5)女御となり,41年3月准三宮宣下を被り,同年12月皇后に冊立された。ついで49年(久安5)8月美福門院の院号宣下を被って女院となり,56年(保元1)落飾して真性定と号し,60年没した。ときに44歳。女院は鳥羽上皇の寵を背景に,皇子体仁(なりひと)親王(近衛天皇)を生後わずか3ヵ月で皇太子に立て,皇太子が3歳になるや崇徳天皇を譲位させて皇位につかせた。しかし近衛天皇が17歳で没するや,崇徳上皇らの呪詛によるとし,その皇子重仁親王の即位を阻み,後白河天皇を皇位につけ,さらにその皇太子に天皇の皇子守仁親王(二条天皇)を立てて,女院の子姝子内親王を東宮妃と定めるなど,女院の構想は着々と実現した。だが一方でそれは皇統の分裂を醸成し,また多子入内問題などで摂関家藤原氏の内訌を助長させるなど,保元の乱の因ともなった。
執筆者:米田 雄介
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鳥羽(とば)上皇の皇后。藤原長実(ながざね)の娘で名は得子、母は源俊房(としふさ)の娘方子。近衛(このえ)天皇の母。鳥羽は皇后待賢門院(たいけんもんいん)との仲が不和で、そのため上皇としては異例であったが、高陽(かや)院を皇后とした。しかし期待された男子が生まれず、そこで美貌(びぼう)の噂(うわさ)の高かった得子を入内(じゅだい)させ、皇子体仁(なりひと)親王が生まれた。1141年(永治1)3歳のとき体仁は皇位につき(近衛天皇)、母である得子の皇后としての権勢も高まった。49年(久安5)院号宣下。56年(保元1)鳥羽の死に際して落飾、真性定と称す。永暦(えいりゃく)元年11月23日死去。墓は和歌山県伊都(いと)郡高野(こうや)町大字高野山字蓮花谷の高野山陵。
[川島茂裕]
『安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(1974・小学館)』
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…白河院没(1129)後はその子鳥羽上皇が院政をとったが,鳥羽院は1141年(永治1)崇徳(すとく)天皇(鳥羽院の子。実際は白河院の子で,そのため鳥羽院は〈おじご〉と呼んでいたという)を謀って退位させ,鳥羽院と美福門院(びふくもんいん)との間に生まれた近衛天皇(3歳)を即位させた。新天皇は病弱で55年(久寿2)に没するが,このとき崇徳上皇はみずからの重祚(ちようそ)か,子重仁親王の即位を期待した。…
…平安後期,この地を中心に鳥羽院領荒川(安楽川)荘が設置された。同荘は鳥羽院の妃美福門院から高野山に寄進され,以後,江戸時代も一帯は高野山領であった。町内には美福門院にかかわる伝承地が多く,その墓と伝える五輪塔,その開基と伝える修禅尼寺などがある。…
…もと久富保と称し,11世紀末に播磨国赤穂郡大掾秦為辰が開発した私領である。秦氏はこれを修理大夫藤原顕季に寄進,それが顕季の孫で鳥羽上皇の皇后美福門院得子に伝えられ,1136年(保延2)鳥羽院庁牒によって正式に立券,ここに美福門院領として矢野荘を称することとなった。美福門院は御願寺として歓喜光院を創建,矢野荘はその所領となったが,美福門院の没後はその子八条院子に伝えられた。…
※「美福門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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