行方村(読み)なめがたむら

日本歴史地名大系 「行方村」の解説

行方村
なめがたむら

[現在地名]麻生町行方

霞ヶ浦に面し、西は船子ふなこ村。古代は「和名抄」にいう行方郷の本郷の地で(新編常陸国誌)、行方郡衙が置かれたとされ、「常陸国風土記」に「郡の東に国つ社あり。此を県の祇あがたのかみと号く。社の中に寒泉あり。大井おほいと謂ふ。郡に縁れる男女、会集ひて汲み飲めり。郡家の南の門に一つの大きなる槻あり。其の北の枝は、自から垂りて地に触り、また、空中に聳ゆ。其の地は、昔、水の沢ありき。今も霖雨に遇へば、庁の庭に湿潦みづたまる」と記される。

中世は大行方おおなめがた・船子の二郷に分れ、嘉元大田文に「大行方廿三丁七反三百歩」とある。大掾氏の一族行方氏の本拠で、同氏の小高おだか移住後は下河辺氏居所となり、「常陸誌料郡郷考」は「此村何の頃よりか姑く八甲村と云ふ、慶長図帳猶其名なり、按下河辺系図左馬助忠卿ヤカウに居るとあるは此地也(中略)後旧に復せり」と記す。

行方村
ぎようほうむら

[現在地名]奈義町行方

高円こうえん村の南東じや淵から流れ出るよど川沿いに位置する。寛永六年(一六二九)高円村より分村(東作誌)。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家林家長の檀那村書(肥塚家文書)に「行法の八郎衛門兄弟」とある。また天文八年(一五三九)一二月吉日の檀那引付(同文書)には「きやうほうの源兵衛」とみえる。正保郷帳に村名がみえ、田九五石余・畑一三石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高三六石余・開高三石余、村位は下。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数一四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報