行方郡
なめかたぐん
浜通り北半に位置し、東は太平洋に面し、南は標葉郡、西は安達郡・伊達郡、北は宇多郡に接する。北から順に真野川・新田川・太田川・小高川・井田川が東流する。阿武隈高地に北から順に二ッ森(六三〇・六メートル)・矢岳山(七〇六・八メートル)・国見山(五六三・七メートル)・八丈石山(五〇七・一メートル)がある。現在の相馬郡鹿島町・小高町・飯舘村、原町市の地。
〔古代〕
「和名抄」は「奈女加多」と訓を付す。「国造本紀」に行方国造はなく、浮田国造がみえ、のちの宇多郡・行方郡の領域を支配したと思われる。養老二年(七一八)五月二日陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理および常陸国の菊多の六郡で石城国に昇格するが(続日本紀)、一〇年足らずで陸奥国に復帰する。神護景雲三年(七六九)三月一三日「行方郡人外正六位下大伴部三田等四人」が大伴行方連を賜姓されている。同年四月七日には「行方郡人外正七位下毛野公田主等四人」が朝臣を賜姓された。延暦一六年(七九七)一月一三日「行方郡人外少初位上大伴部兄人等」が大伴行方連を賜姓された。三田は行方郡領とみられ、兄人は彼の同族であろう。田主らは陸奥国唯一の下毛野朝臣という中央型の姓を受けている点注目される。宝亀五年(七七四)七月二〇日行方郡衙に火災があって、穎稲二万五千四〇〇余石が焼けた(以上同書)。現原町市泉の県指定史跡泉廃寺が行方郡衙に比定され、礎石・古瓦・焼籾が出土している。泉廃寺出土瓦一括は県指定重要文化財。多賀城漆紙文書によれば、宝亀一一年九月に「行方団□毅上毛野朝
」とあり、行方軍団の軍毅上毛野朝臣の存在が知られ、下毛野朝臣と並んで上毛野朝臣も当郡に居住している。「類聚三代格」弘仁六年(八一五)八月二三日に「行方団一千人」を新設したとある。宝亀一一年に存在した行方軍団が三五年後に新設されるのは、一時中断していたのであろう。「三代実録」貞観八年(八六六)正月二〇日条に、常陸国鹿島神宮の陸奥国内の苗裔神三八社のうち一社が当郡にあると記され、現鹿島町の鹿島御子神社がそれに比定される。「延喜式」神名帳に高座神社・日祭神社・冠嶺神社(現原町市)、御刀神社・鹿島御子神社(現鹿島町)、益多嶺神社(現小高町)、多珂神社・押雄神社(現原町市)の八社が記される。
行方郡
なめがたぐん
面積:二九三・三七平方キロ
北浦村・玉造町・麻生町・牛堀町・潮来町
県南東部にあり、霞ヶ浦・北浦の間に突出した半島状の郡。北は東茨城郡・鹿島郡に接し、南は北利根川を隔てて千葉県佐原市に相対する。郡中央部は標高三〇メートル前後の行方台地で台地の間を縫うように梶無川・城下川・夜越川などの小河川が霞ヶ浦・北利根川に注ぎ、武田川・山田川・蔵川・雁通川などが東流して北浦に注ぐ。
行方郡の建郡は「常陸国風土記」に「癸丑の年、茨城の国造、小乙下壬生連麿・那珂の国造、大建壬生直夫子等、惣領高向の大夫・中臣幡織田の大夫等に請ひて、茨城の地の八里と那珂の地の七里とを合せて七百余戸を割きて、別きて郡家を置けり」と記される。さらに同書は郡名の由来を「倭武の天皇、(中略)四を望みまして、侍従を顧てのりたまひしく、「輿を停めて徘徊り、目を挙げて騁望れば、山の阿・海の曲は、参差ひて委蛇へり。峯の頭に雲を浮かべ、谿の腹に霧を擁きて、物の色可怜く、郷体甚愛らし。宜、此の地の名を行細の国と称ふべし」とのりたまひき。後の世、跡を追ひて、猶、行方と号く。風俗の諺に、立雨零り、行方の国といふ」と記す。
〔原始〕
縄文時代の遺跡は早期から晩期まで六〇余ヵ所あり、北利根川支谷に臨む台地上にある潮来町の狭間貝塚は縄文早期の遺跡で、ハマグリとマガキを主体とする鹹水産貝類で形成され、各種魚骨の出土も豊富。野島式・鵜ヶ島台式土器なども出土した。北浦に臨む台地上にある北浦村の鶴ヶ居貝塚は縄文中期―後期の遺跡で、一四の住居跡が確認された。霞ヶ浦に臨む台地上にある麻生町の大宮台貝塚は縄文後期の遺跡で、多数の遺物が出土している。弥生時代の遺跡は霞ヶ浦・北浦両湖に注ぐ小川の流域や陸地に入込んだ地域にみられるが、縄文遺跡との複合遺跡で、数も十数ヵ所と少ない。郡内の古墳は一二〇余ヵ所に上るが、潮来町の大生古墳群に属する孫舞塚古墳は全長七一・五メートルの前方後円墳で周堀・土塁を有し、くびれ部に造出部がつく珍しい形態である。箱式石棺から人骨(二体)・刀装具など、墳丘からは各種の形象埴輪・土器類が出土し、東国の開拓に活躍した意富氏の首長級の奥津城と推定されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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