日本歴史地名大系 「勝田郡」の解説 勝田郡かつたぐん 面積:二五四・二六平方キロ勝田(かつた)町・奈義(なぎ)町・勝央(しようおう)町・勝北(しようぼく)町県北東部に位置。吉井川とその支流吉野(よしの)川水系の河川がほぼ南流し、郡北部は那岐(なぎ)山(一二四〇・三メートル)・滝(たき)山(一一九六・五メートル)などがそびえ、氷(ひよう)ノ山後山那岐山(せんうしろやまなぎさん)国定公園の指定域となっている。那岐山麓に奈義町、その西に勝北町、東・南に勝田町、南に勝央町が位置する。勝央町南部には平坦地がある。郡東部・南部は英田(あいだ)郡西粟倉(にしあわくら)村・大原(おおはら)町・作東(さくとう)町・美作町、南部・西部は久米(くめ)郡柵原(やなはら)町・津山市、北部は苫田(とまた)郡加茂(かも)町および鳥取県八頭(やず)郡智頭(ちず)町に接する。津山市からの中国自動車道・国道一七九号・JR姫新線は勝央町勝間田(かつまだ)地区を経て美作町に東進、国道五三号は勝北・奈義両町を通って黒尾(くろお)峠を越えると智頭町に至る。奈義町から勝北町にかけて広大な日本原(にほんばら)高原が広がり、自衛隊の演習場となっている。近世には勝北郡・勝南(しようなん)郡に分割されたが、明治三三年(一九〇〇)両郡は合併して再び勝田郡となった。近世の両郡域は、西は加茂川・吉井川の左岸側、南は吉井・吉野両川の合流域以北、東は吉野・梶並(かじなみ)両川をさかのぼり、東谷(ひがしだに)川沿いを含む。したがって、現行政区分では津山市の東部、柵原町東半部、英田郡美作町・英田町西部に及び、逆に勝田町南東部は吉野郡に属していた。郡名は六国史では「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条が初見。〔原始・古代〕郡内の旧石器時代の遺跡としては、ナイフ形石器一点を出土した天神原(てんじんばら)遺跡(津山市)が知られる。縄文時代早期では勝央町の金鶏塚(きんけいづか)遺跡がある。弥生時代とくに中期以降は、加茂川左岸・滝川両岸および那岐山麓などを中心におびただしい遺跡がみられる。このうち発掘調査がなされたおもな遺跡は、那岐山麓の野田(のだ)遺跡(中期、奈義町)、加茂川左岸の天神原遺跡(後期)、滝川左岸の小中(こなか)遺跡(後期、勝央町)の集落跡、加茂川左岸の才(さい)ノ峪(さこ)遺跡(後期、津山市)の墳墓跡など。滝川右岸の念仏塚(ねんぶつづか)遺跡(勝央町)からは中期に属する銅鐸一点が出土している。当郡は苫田(苫東・苫西)郡とともに美作では古墳文化の最も発達した地域で、主要古墳の分布から次の四地域、すなわち前方後円墳・円墳からなる加茂川左岸地域(井口車塚・国分寺飯塚・日上天王山各古墳など)、前方後方墳を中心とする滝川中流地域(植月寺山・美野高塚・美野中塚・田井高塚各古墳など)、前方後円墳・前方後方墳からなる同川下流地域(岡高塚・殿塚・琴平山各古墳など)、大型円墳の集中する吉井川・吉野川合流点地域(月の輪・釜の上・王子中各古墳など)に分けられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by