西国分村(読み)にしこくぶむら

日本歴史地名大系 「西国分村」の解説

西国分村
にしこくぶむら

[現在地名]岩出町西国分

現岩出町東端の平野部にある。東は東国分村(現打田町)。村の南東部を藤崎井ふじさきい用水が通じる。「続風土記」は「古の国分寺領なるを以て直に国分を村名に呼ひ来れるなり」と記し、その跡と伝える塔の芝とうのしばの名が残る。長承元年(一一三二)一一月一三日の岡田庄立券文案(根来要書)岡田おかだ庄の四至に「限北国分寺堺」とみえる。

慶長検地高目録によれば村高六五四石余、小物成一斗三升八合、岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると、田四八町五反余で高六二三石余、畠三町一反余で高三〇石余。二歩米は一三石八斗八合五勺でこの銀七八五匁三分一厘、御種借米は元米二六石一斗七升六合でこの利一五石二斗三升五合二勺。


西国分村
にしこくぶむら

[現在地名]群馬町西国分

金古かねこ村・冷水ひやみず村の東にある。土地はおおむね平坦で、北部北原きたはら村との境付近を流れる牛池うしいけ川流域は低地。字薬師廻やくしめぐりの台地状地形一帯で縄文式土器・土師器須恵器・薬壺などの破片がみつかっている。当地から東国分村、総社そうじや(現前橋市)にかけては国府の所在地であったと考えられ、国分の地名は東国分村の地に国分寺があったことによる(→東国分村

慶長七年(一六〇二)国分村検地帳のうち四帳(住谷家蔵)が東国分の分、別に三帳が西国分の分であったと考えられ、寛永一二年(一六三五)の検地帳から東西に分れた(住谷文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android