群馬郡(読み)ぐんまぐん

日本歴史地名大系 「群馬郡」の解説

群馬郡
ぐんまぐん

面積:二八五・五八平方キロ
倉淵くらぶち村・榛名はるな町・箕郷みさと町・群馬ぐんま

県の中央部から西寄りに位置する。近代に入るまでは現在の北群馬郡、高崎市の過半、佐波さわ郡・吾妻あがつま郡・前橋市・渋川市の一部をも郡域としたが、現在は旧碓氷うすい郡の一部を含む一村三町で形成される。東西に長く、東部は箕郷町・群馬町、西から南にかけて倉淵村・榛名町が位置し、西から北にかけて吾妻郡長野原ながのはら町・吾妻町・あずま村、東は北群馬郡伊香保いかほ町・榛東しんとう村・前橋市、南は高崎市・安中市・碓氷郡松井田まついだ町・長野県北佐久きたさく軽井沢かるいざわ町に接する。北部には榛名山の最高峰掃部かもんヶ岳(一四四九メートル)・中央火口丘榛名富士(一三九〇・七メートル)火口原湖の榛名湖があり、当郡は榛名山の西から南、さらに南東斜面を占め関東平野に続く。長野県との境にある鼻曲はなまがり(一六五四メートル)に源を発するからす川が東南に流れ、榛名山の寄生火山相馬そうま(一四一一メートル)の南から発するしら川が烏川に注ぐ。上越新幹線と関越自動車道が群馬町を走り、国道四〇六号が榛名町・倉淵村を抜ける。郡名は藤原宮出土木簡に「上毛野国車評」とみえる。「和名抄」東急本郡部に「群馬久留末」とあることから、郡の呼称は「くるま」であり、和銅六年(七一三)五月の好字令(続日本紀)により「群馬」をあてたとも考えられる。なお「和名抄」に注記として「国分為東西二郡府中間国府」とあり、国府の地を境に東西二郡に分轄されていた時期もあった。

〔原始〕

先土器時代の遺物・遺跡はみられないが、榛名山麓一帯には縄文時代の遺跡や遺物が発見されている。時期的には早期から晩期まで連続性がみられ、箕郷町のはるなごう早期縄文遺跡など早期前半の押型文土器を伴う遺跡もあるが、数的には後期以降のものが多い。倉淵村の長井ながい敷石住居跡は堀之内式に編年されるものである。弥生時代の遺跡は山麓から平坦地に多く発見され、前期後半の同村かみ久保くぼ遺跡、樽式土器を伴う同村水沼みずぬま遺跡は群馬県の弥生文化研究の標式的遺跡である。中期後半になって農耕集落が出現し、当郡寄りの高崎市周辺に水田跡が発掘されたが、群馬町同道どうどう遺跡でも畦畔を計画的に配した水田跡が発見された。古墳時代の遺跡は榛名町本郷的場ほんごうまとば古墳群のしどめづか古墳(円墳)をはじめとして同町南部に点在し、箕郷町・群馬町にも多く分布する。群馬町から箕郷町に及ぶ地域は五世紀末から七世紀にかけて作られた大古墳地帯である。群馬町保渡田ほどた地域の薬師やくし塚・愛宕あたご塚・八幡はちまん塚の三墳は全長六〇―一〇〇メートルに及ぶ前方後円墳で、榛名山南麓を支配した豪族の墳墓と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報