日本歴史地名大系 「西小田村」の解説 西小田村にしおだむら 福岡県:浮羽郡田主丸町西小田村[現在地名]田主丸町野田(のだ)東小田村の西に位置する。中世は小田のうち。屋敷地は観音津留(かんのんつる)溝と古(ふる)川の間にある。筑後川の中洲には西小田分川原(長さ一〇〇間・幅五〇間)があり、左岸には西小田分畑が広がる(上三郡絵図)。正保四年(一六四七)の大小道之帳に村名がみえ、石王(いしおう)ノ渡の対岸(筑後川右岸)に当村の飛地があった。幕末の筑後川絵図(木村家蔵)によると上流は行徳(ぎようとく)村、下流は立野(たての)村で川岸通四七七間、堤防内側に中日出名・早日出名および鯰(なまず)刎二八間・長(なが)刎一八〇間がある。本高は一五三石余(元禄国絵図)。 西小田村にしおだむら 福岡県:筑紫野市西小田村[現在地名]筑紫野市西小田隈(くま)村の南東、南東流する宝満(ほうまん)川右岸の平野部にある。北東部で山家(やまえ)川、ほぼ中央部で曾根田(そねだ)川が宝満川に合流する。御笠(みかさ)郡の南端に位置し、南は筑後国御原(みはら)郡津古(つこ)村・乙隈(おとぐま)村(現小郡市)、東は夜須(やす)郡東小田村(現夜須町)。薩摩街道が南東部をほぼ南北に通り、南端野添(のそえ)(一名馬市)の集落から三里南の街道の左右に国境石が立っていた(続風土記拾遺)。明応六年(一四九七)六月二一日の大内義興袖判下文(萩藩閥閲録四)によれば、先年一一月の少弐政資討伐以来の勲功の賞として来原盛剣に坂井右馬允跡の「西小田五町地」が宛行われている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by