日本歴史地名大系 「野田村」の解説
野田村
のだむら
野田村
のだむら
九戸郡の南部に位置、東は海に面し、西は
野田村
のだむら
東から南東にかけては
野田村
のだむら
現土居町の東端に位置し、
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「高三百九拾弐石八斗七升四合 野田村」と村名がみえる。「和名抄」にみえる宇摩郡津根郷に属したとされ、江戸時代には津根八日市一柳氏領を経て一時幕府領、宝永三年(一七〇六)に分知し
宝永元年の伊予国宇摩郡野田村明細帳によると延宝三年(一六七五)一柳権之丞の検地が行われたとし、村は東西六町八間、南北一七町三六間で、居村は東西四〇間、南北四〇五間、枝郷は上野田と
野田村
のだむら
- 愛知県:刈谷市
- 野田村
現刈谷市の東に位置し、北は
二本木遺跡(現安城市)からは、
野田村
のだむら
〔中世〕
薩摩国建久図田帳に伊集院のうちとして「野田六町 島津御庄論 万得」とみえ、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領の万得領であったが、島津庄側とその帰属をめぐって相論していた。鎌倉時代後期と推定される薩摩伊集院分造宇佐宮用途支配注文(島津家文書)によれば、野田は豊前宇佐宮造営用途三〇疋・人夫食料米七斗二合五勺を賦課されている。延慶二年(一三〇九)一二月一二日の鎮西下知状(旧記雑録)によれば、伊集院野田淡路坊兼祐は
野田村
のたむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 山形県:東根市
- 野田村
西流する
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 大分県:別府市
- 野田村
野田村
のだむら
- 愛媛県:大洲市
- 野田村
元亀四年(一五七三)三月、河野通直が
とある。牛福は河野通直の幼名(「宇和旧記」校注)。
江戸時代を通じて宇和島藩領。「大成郡録」に記された太閤検地の石高七二四石一斗余(田二五町六反余、畑一五町二反余)は、元禄九年(一六九六)宇和島藩の一〇万石高直しによって、一千一〇〇石五斗余(田六七町九反余、畑一一〇町四反余)と増加した。宝永三年(一七〇六)の戸数一三八、人口八八一、宝暦七年(一七五七)の戸数一三八、人口八七四。
野田村
のだむら
野田村
のたむら
野田村
のだむら
- 埼玉県:入間市
- 野田村
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 大阪府:豊中市
- 野田村
野田村
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野田村
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野田村
のだむら
野田村
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野田村
のだむら
野田村
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- 大阪府:高槻市
- 野田村
野田村
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- 栃木県:小山市
- 野田村
野田村
のだむら
野田村
のだむら
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一四五石とある。「月の出羽路」に「此邑今はしか諸村にわかれたれど、野田は古き地にして往古はいといと広く
享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高合計一五九石余とある。元治元年(一八六四)には当高一二二石余に減少し、家数は一五軒とある(「仙北郡前北浦村々惣高家数人数馬数帳」小貫文書)。
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 栃木県:足利市
- 野田村
渡良瀬川右岸、
野田村
のだむら
- 愛知県:新城市
- 野田村
慶長九年の検地帳では、
野田村
のたむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
東は陸奥湾に臨み、南は
正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 大分県:杵築市
- 野田村
杵築城下から
野田村
のだむら
野田村
のだむら
六郷山中山本寺
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 埼玉県:川越市
- 野田村
川越城下町郷分の西、
野田村
のだむら
野田村
のだむら
重信川中流の右岸にある農村。現重信町の西端に位置し、東は
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
鎌倉期には野田白石に根拠を置く越智氏の分流白石三郎家員の名が、「吾妻鏡」の元久二年(一二〇五)閏七月二九日の条の河野通信統率の御家人三二人のなかにみえる。
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 静岡県:島田市
- 野田村
島田宿の北、
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
常願寺川左岸寄りの平地にあり、西は
野田村
のだむら
東北に
寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に「野田村」とみえる。「水府志料」には村の東西三四町・南北一六町、戸数およそ一〇八、「産物、西野内、半切紙、半紙、団扇紙あり。渡場あり。荷受かしあり。上川かし、黒羽、左良土等の荷物ばかりを中次す。水戸かしへ運送す」とある。松蘿館文庫の「寛永文書」(茨城県立図書館蔵)によれば、寛永七年(一六三〇)領内村々から徴発した人馬のうち「野田村鮭留御用」として一千四七七人、「野田村鮭留の材木郷々よりつけ出馬」二三匹とみえ、同一二年には「野田村鮭留手伝」一千六五二人、「梁打の節番所作り御用」一〇九人が徴発された。
野田村
のだむら
- 千葉県:袖ケ浦市
- 野田村
野田村
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野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 福井県:鯖江市
- 野田村
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 岩手県:九戸郡
- 野田村
九戸郡の南東端に位置、東は太平洋に面し、西から北は久慈市、南は
高原地帯では酪農と養豚の主産地化が進められ、海岸では野田・玉川・下安家の三港が第一種漁港に指定、サケ、マスの放流事業、ホタテ貝の地まきなど養殖漁業が行われている。
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 千葉県:佐倉市
- 野田村
野田村
のだむら
- 京都府:綾部市
- 野田村
綾部村の東端、
寛文修正検地では高一〇九石余、天保年間(一八三〇―四四)の総人数一三七、家数二九(「田畑反別石高其他」沼田家文書)。村内の山は綾部郷中の入会肥草山で薪の不足は隣村の山家村
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 埼玉県:東松山市
- 野田村
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 兵庫県:加西市
- 野田村
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のたむら
- 愛知県:春日井市
- 野田村
東から西南にかけて庄内川が流れ、対岸は
野田村
のだむら
- 熊本県:熊本市
- 野田村
南は緑川、北および東西は
野田村
のだむら
- 茨城県:下館市
- 野田村
野田村
のだむら
日置村の西方、
寛保二年(一七四二)の津黄村由来書(「地下上申」所収)に「往古俵山油の野田と申所より入百姓参り居住仕、夫より野田と申ならわし候」とみえ、また「注進案」に「往昔永禄の比、俵山温泉里の野田と云所の郷士何某、此辺に来り遊猟し猪を射損じ誤て犬に当り即死仕候、依て此地に埋め壱人して大磐石を其上におき塚となし、箭竹を折て印とし、弓箭の業を止め、深山を開き農業を起し民間に下り候、然処其印の箭竹芽を出し于今生茂り候、夫より彼郷士の本土の名を以て此地を野田と称し来り候」ともあって、
野田村
のだむら
野田村
のたむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 石川県:加賀市
- 野田村
野田村
のだむら
野田村
のだむら
- 福岡県:豊前市
- 野田村
野田村
のだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報