野添村(読み)のぞえむら

日本歴史地名大系 「野添村」の解説

野添村
のぞえむら

[現在地名]黒石市東野添ひがしのぞえ・野添町・柵ノ木さくのき竹田たけだ町・昭和しようわ町・松葉まつば町・寿ことぶき町・岩木いわき町・道北みちきた町・あさひ町・弥生やよい町・あずま町・にしき町・花園はなぞの町・桜木さくらぎ町・春日かすが町・美原みはら町・東新ひがししん町一―二丁目・さいわい町・角田かくた八甲はつこう青山あおやま・あけぼの町・北美きたみ町一―三丁目・若葉わかば

黒石城下の東北にあたり、東南に牡丹平ぼたんだいら村、北に上十川かみとがわ村、西に株梗木ぐみのき村がある。野添の名は宇杭野うぐいのに沿ったところに由来するといわれる(山形郷土物語)。野添の名は、正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳にみえるが、これは弘前藩猿賀組の野添のそえ(現南津軽郡尾上町)である。元禄二年(一六八九)の黒石平内巳年郷帳(市立弘前図書館蔵)に六〇・六石とあり、同四年の黒石御絵図(同館蔵)にも村名がみえる。


野添村
のぞえむら

[現在地名]関金町野添

明高みようこう村の西に位置する。北に地蔵じぞう峠、南西に新小屋しんごや峠がある。集落の北方を大山道(川床道)が通り、地蔵峠を経て野井倉のいぐら(現東伯町)に抜ける。元禄一四年(一七〇一)明高村の枝郷として届出されており(藩史)、正徳五年(一七一五)郷村高辻帳(県立博物館蔵)に当村分として載る二石余は拝領高相当分と考えられる。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高六石余、竈数六。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三三石余、竈数一〇。地内に木地師集落が六ヵ所あった。地蔵峠付近にあった野津見のづみ木地は正保四年(一六四七)から元禄七年まで、新小屋木地は延宝七年(一六七九)から延享元年(一七四四)まで、野添木地は享保五年から文政一三年(一八三〇)まで、泉谷いずみだに木地は享保二〇年から安永九年(一七八〇)まで、笹が平ささがなる木地は寛延二年(一七四九)から文政一三年まで、桑が瀬くわがせ山木地は寛政一一年(一七九九)から文政一三年までの氏子狩帳(筒井神社文書)の記事に登載されている。


野添村
のぞえむら

[現在地名]大宮町野添

野原のわら村の西にあり、北を宮川が東流する。背後は小峰が北西に起伏し、西の打見うちみ村境をふじ川が流れる。村名は原野にそうところからといわれ、古くは「野副」とも書く。古来神領で七箇しちか御園のうちといわれる。「年中神役下行御贄以下記」に「野副郷」、「建久三年皇太神宮年中行事」の滝原たきはら宮参向の条に「幣使米三斗、自野原進、人夫一人、自野副郷進」とみえる。

天正一二年(一五八四)蒲生氏郷、同一八年牧村利貞、文禄二年(一五九三)九鬼嘉隆、同三年稲葉道通、元和三年(一六一七)藤堂高虎の支配を経て、同五年和歌山藩領。


野添村
のぞえむら

[現在地名]播磨町野添・野添城のぞえじよう一―三丁目・野添南のぞえみなみ一―二丁目・野添一―五丁目・野添東のぞえひがし一―二丁目・野添北のぞえきた一―三丁目・宮北みやきた一丁目

大沢おおさわ村の東に位置し、北は土山つちやま(現加古川市)。正平九年(一三五四)八月日の住吉社造営用途注進状(住吉松葉大記)によると、石光いわみつ一色が預所三貫文・庄官二貫四〇〇文・庄役三貫文を負担している。石光は当地内に比定される。天正一〇年(一五八二)八月二八日、羽柴秀吉は山名尭熙に加古郡の「のそへ」五七九石などを与えている(「羽柴秀吉判物」記録御用所本古文書)


野添村
のぞえむら

[現在地名]白鳥町野添

陰地おんじ村の東、長良川の支流牛道うしみち川中流右岸段丘上に立地。戦国時代当村と中西なかにし村との間を東西に走る尾根中央の高地にッ城があり、猪俣五平治が居城して、牛道郷一円と越前穴馬あなまの地を領有した。天文九年(一五四〇)朝倉氏が篠脇しのわき城を攻めた時、同城も朝倉勢の来攻を受けたが退けたという(「遠藤記」慈恩寺蔵)。百人塚はこの時の墳墓と伝える。


野添村
のぞえむら

[現在地名]美山町大字野添

平屋ひらや一〇ヵ村の一。野添谷のぞえたに川が由良川に合流する地点にある山間集落。由良川の対岸安掛あがけ村・上平屋かみひらや村、南西隣は長尾ながお村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高七三・三二四石、旧高旧領取調帳では九三・〇八一石。


野添村
のそえむら

[現在地名]尾上町西野曾江にしのぞえ

田圃を隔てて西に日沼ひぬま村、北に蒲田かまた村、北東に八幡崎やはたさき村、南に杉館すぎだて(現平賀町)がある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡の新田に高二七・〇二石とある。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、田畑屋敷合わせて二六町七反九畝一〇歩、村高二九五・七五七石とある。うち田方は二四町一反四畝一三歩、二八一・八四四石、上田から下田まで設定され、上田が一〇町五反四畝一七歩、一三七・〇九四石、中田一〇町四反一畝一三歩、一一四・五五八石であり、畑方は二町六反四畝二七歩、一三・九一三石、上畑から下畑までで、上畑が一町七畝一三歩、六・四四六石とあり、広さ二〇歩の郷蔵屋敷もみえる。


野添村
のぞえむら

[現在地名]板柳町野中のなか

東は五幾形ごきがた村、南は野中村、北はさかい(現鶴田町)に接する。

寛文四年(一六六四)の高辻帳に六三〇石とあり、貞享元年(一六八四)郷村帳に新田として同高が記される。同四年の検地帳に田方四八町七反七畝七歩、畑方一九町八反五畝二九歩、田畑屋敷合せて六八町六反三畝六歩、村高四六二・四五二石、百姓六二人、漆木二本と記す。元禄三年(一六九〇)には赤田組に属し、村位は中とある(平山日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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