武田信光(読み)たけだ・のぶみつ

朝日日本歴史人物事典 「武田信光」の解説

武田信光

没年宝治2.12.5(1248.12.21)
生年:応保2(1162)
鎌倉前期の武将甲斐国(山梨県)の住人。甲斐源氏信義の子。治承4(1180)年,一族と共に挙兵,駿河国(静岡県)に出陣し,平家方を破る。その後,源頼朝の傘下に入り,平家追討戦に従軍した。文治5(1189)年の奥州合戦にも参加するが,このころ安芸国(広島県)の守護であった。その後も阿野全成 の逮捕(1203)や和田合戦(1213)などで活躍。承久の乱(1221)の際にも東山道の大将軍として上洛,その功により再び安芸国の守護に任ぜられた。なお,兄一条忠頼が頼朝に誅殺されたため,武田氏家督は信光が継いだ。

(三田武繁)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武田信光」の解説

武田信光 たけだ-のぶみつ

1162-1248 平安後期-鎌倉時代の武将。
応保2年生まれ。武田信義の5男。治承(じしょう)4年源頼朝の挙兵にくわわる。甲斐(かい)(山梨県)石和(いさわ)を本拠とし,武田氏の家督をつぐ。安芸(あき)(広島県)守護となり,和田氏の乱,承久(じょうきゅう)の乱で功をたてた。宝治(ほうじ)2年12月5日死去。87歳。通称は石和(伊沢)五郎

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「武田信光」の解説

武田信光 (たけだのぶみつ)

生年月日:1162年3月5日
平安時代後期;鎌倉時代前期の武将
1248年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の武田信光の言及

【甲斐国】より

…旧国名。甲州。東海道に属する上国(《延喜式》)。現在の山梨県。
【古代】
 古墳時代の甲斐は,前期には曾根丘陵地帯に銚子塚古墳(中道町)などいくつかの前方後円墳が出現し,後期には分布地域が広がり,姥塚(うばづか)(御坂町),加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も現れた。これら古墳の築造者で,この地の支配者であった甲斐国造(くにのみやつこ)が,大和の政権に貢上した馬は,“甲斐の黒駒”と呼ばれて名高く,その伝統は平安時代に駒牽(こまびき)の行事となった。…

【守護領】より

…鎌倉時代のものとしては1235年(嘉禎1)に幕府が認めた安芸守護藤原親実の例が著名である。それは国府ならびに同近辺の郡地頭職,在庁兄部(このこうべ)職(国衙在庁官人の支配・指揮権をもつ),祇園神人兄部職(交通・商業活動を行う祇園社神人の支配権をもつ),国内に広く分布する久武名(有勢な国衙在庁の仮名)などから成っており,これらは前守護武田信光さらに宗孝親の体制を継承したものであった。守護宗孝親は在国司で在庁兄部を兼帯していたが,承久の乱の際朝廷方に属してそれらを没収された。…

【武田氏】より

…本姓は清和源氏であり,新羅三郎義光の子義清が甲斐国巨摩郡武田荘へ荘官として赴任したところから武田姓を名のる(図)。義清の孫信義は治承・寿永の乱で,源頼朝方として戦功をたて,鎌倉幕府成立後には,甲斐の有力御家人となり,守護職に任ぜられた。一族の逸見,加賀美,安田氏も栄えたが,甲斐源氏の勢力を恐れた頼朝によって,武田信義の長男一条忠頼と弟の安田義定は謀殺された。嫡系は忠頼の弟石和信光がつぎ,以後その子孫が一族を分出させながら守護職を世襲し,あわせて,甲斐国内の諸荘園の地頭職をも獲得していった。…

※「武田信光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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