日向国(読み)ヒュウガノクニ

デジタル大辞泉 「日向国」の意味・読み・例文・類語

ひゅうが‐の‐くに〔ひうが‐〕【日向国】

日向

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日本歴史地名大系 「日向国」の解説

日向国
ひゆうがのくに

七世紀中期以降、律令制の成立に伴って成立し、当初はのちの大隅国・薩摩国を含む広域にわたっていた。和銅六年(七一三)に日向国を割いて大隅国が設置されており、薩摩国もこれ以前に成立していたと考えられる。西海道に属した。北は豊後国、西は肥後国・薩摩国、南は大隅国に接し、東は日向灘に面する。現在鹿児島県域に属する志布志しぶし方面が古代に日向国に含まれていた可能性は低いとする説があるが、少なくとも鎌倉時代末期には日向国諸県もろかた郡に属した。建武二年(一三三五)六月二一日の後醍醐天皇綸旨(「古文書纂」所収文書)にみえる「島津庄日向方柏原別府」は、現鹿児島県東串良ひがしくしら町の可能性が高く、南北朝期にはこの付近が日向国の南限となっていたようだ。

また近世初期までは米良めら椎葉しいば地域の所属が日向か肥後かあいまいであったが、米良は肥後国とされ、椎葉は日向国と決定された。そのほかは古代から近世にかけて国境に変化はなかったと考えられる。近世の日向国は米良地域を除く現在の宮崎県全域、鹿児島県曾於そお志布志町大崎おおさき町・松山まつやま町・有明ありあけ町と同郡大隅おおすみ町の一部を含む地域であった。なお日向の訓について、「日本書紀」推古天皇二〇年正月七日条に「馬ならば日向の駒」とあり、同書はこの日向を「譬武伽」(ヒムカ)と表記している。ただしこの「譬武伽」を日向国のこととするには慎重な検討を要する。

古代

「古事記」「日本書紀」の日向神話は、七世紀末から八世紀初頭の両書の編纂時期の南九州情勢を反映していると考えられ、その内容を古墳時代以前の歴史的事実とみることはできない。幾分なりと歴史的事実の反映がうかがえるのは、景行の「征西説話」からである。しかしこの説話も斉明の九州行幸を契機にまとめられたとする説があり、内容の吟味には十分に注意する必要がある。景行の「征西説話」は、「古事記」「日本書紀」ではかなり内容が異なっている。

〔景行とヤマトタケルの「征西説話」〕

「古事記」景行天皇段によると、景行は小碓命に西方の二人の熊曾建の征討を命じ、小碓命は女装して熊曾建を殺すが、そのとき熊曾建は名を進上し、その後小碓命は倭建命を名乗ることになる。「日本書紀」景行天皇一二年条などではまず熊襲が反乱を起こしたので、景行自らがこれを平定するために筑紫に赴き、各地を巡行するとともに高屋たかや(比定地未詳)に拠点を置き、国を平定する。この間に御刀媛との結婚や豊国別皇子の誕生、子湯こゆ県の丹裳小野にものおの(比定地未詳)への行幸と作歌、夷守の岩瀬ひなもりのいわせ川のほとりにおける諸県君泉媛の服属の話がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「日向国」の意味・わかりやすい解説

日向国 (ひゅうがのくに)

旧国名。日州。現在の宮崎県および鹿児島県の一部。

西海道に属する中国(《延喜式》)。日向ははじめは九州南部一帯の呼称で熊襲,隼人の居住地をいった。8世紀初めまず薩摩国を分出し,ついで713年(和銅6)に日向国肝坏(きもつき),贈於(そお),大隅,姶(あいら)の4郡を分割して大隅国を設置し(《続日本紀》),九州南部の一国としての境域が確定した。《延喜式》によれば臼杵,児湯(こゆ),那珂,宮崎,諸県(もろかた)の5郡より成り,国府は児湯郡(現,宮崎県西都(さいと)市三宅国分)に置かれた。《古事記》《日本書紀》景行天皇条に日向国造の祖として豊国別王の名がみえる。神話の舞台であり,また西都原(さいとばる)古墳群をはじめ高塚式の古墳が多数存在し,遺物等からも大和朝廷との関係がうかがえる。平安時代には荘園が多数成立した。その状況は《八幡宇佐宮御神領大鏡》や1197年(建久8)の《日向国図田帳》によって知ることができる。後者によれば宇佐宮領1913町は北部を中心に,1026年(万寿3)平季基開発の近衛家領島津荘3837町は島津駅のあった付近(現在の宮崎県都城市郡元(こおりもと))を基点として南部を中心に,八条院領国富荘1502町は中部を中心に分布する等,総田数8064町の大半を占め,一円公領は右松保25町のみという状態となった。《図田帳》の末文によれば1184年(元暦1)ごろ武士の乱逆により国の文書を紛失したとあるが,これは古代末期,在地領主の活発な動きを示しているといえよう。在庁官人は大半が日下部氏で,同氏は在国司職や郡司職を世襲するなど国衙を中心に繁衍した。田部姓土持(つちもち)氏はその縁族として台頭し,中部から北部にかけて勢威を張った。

鎌倉幕府は島津荘惣地頭島津忠久を日向国守護職に補任したが,島津氏は比企氏の乱により守護・地頭両職とも改易され,代わって北条氏が相伝した。1333年(元弘3)幕府滅亡時の惣地頭は執権守時であった。その後一時島津貞久が守護職に復したが,34年(建武1)7月には日向,大隅の在地領主が新守護の支配に抗し,旧主北条氏らの遺族・家人らを擁して蜂起している。これも,政権交代期に在地領主が支配権の拡大を希求した動きといえよう。北条氏の家人の系譜をひくと思われる在地領主に野辺氏(櫛間院),楡井(にれい)氏(救二院,救二郷)らがあり,南北朝時代,肝付兼重(日向三俣院,大隅肝付郡)らとともに一時期南朝方の武将として活躍した。楡井頼仲は鹿児島県志布志大慈寺の開創者で日向,大隅にかけて奮戦したが,敗れて57年(正平12・延文2)同寺で自殺した。

足利尊氏は日向,大隅の南朝方勢力制圧のため,畠山直顕を派遣した。しかし50年(正平5・観応1)ごろ武家方が将軍方と足利直冬方とに分裂し,直顕は後者に属し,前者に属した島津貞久・氏久父子と抗争した。この間58年(正平13・延文3)肥後南党の菊池武光は日向に進撃し,直顕を穆佐(むかさ)城に攻め窮地にたたせている。また氏久は大隅大姶良(おおあいら)城より志布志内城に入り,貞久の弟新納(にいろ)時久,樺山資久,北郷(ほんごう)資忠らとともに大隅,日向の経営に当たった。71年(建徳2・応安4)九州探題として下向してきた今川了俊は南朝方勢力の強い九州の情勢を,武家方に有利に改変しようと努めた。島津氏久の離脱等により菊池氏討滅に失敗したものの,漸次態勢を整え南九州の在地領主を後援して島津家に対抗させ,反島津一揆形成を実現させるなどしている。また子の満範を日向に派遣,北郷氏の拠城都城の周辺で両者間の攻防戦が展開された。

1395年(応永2)了俊は探題職を罷免され,以後日向の地は代わって伊東,島津両氏の対立抗争期に入る。伊東氏は鎌倉時代初期から宇佐宮領の地頭職を有していたが,35年(建武2)一族の田島氏が大光寺を創建,工藤祐経6代の孫祐持は児湯郡都於郡(とのこおり)に下向土着,領域を拡大した。一族の祐広は諸県郡八代を拠点に南朝方として活躍した。島津氏が本格的に日向国に勢力を伸ばしたのは元久・久豊兄弟の代で,伊東氏領の宮崎平野も併せ山東(青井岳天神嶺以東の地,伊東氏の本拠)に進出,久豊の子忠国の代には,1441年(嘉吉1)謀叛の罪に問われた将軍義教の弟大覚寺義昭を櫛間永徳寺に自刃させ,幕府より恩賞を受けている。忠国の子伊作久逸(いざくひさとし)ははじめ櫛間に封じられたが,84年(文明16)飫肥(おび)の新納忠続と争い,忠国の子立久の子忠昌は久逸を伊作に帰し,忠続を志布志に移し,一族の忠廉(豊州家)に櫛間,飫肥を与えている。しかしかねてより飫肥をうかがっていた伊東氏と衝突し,同地方は以来久しく両氏が争奪をくりかえした。永正・大永年間(1504-28)には北郷氏と伊東氏との間で三俣院の攻防戦があり,1532年(天文1)北郷忠相は飫肥の島津忠朝(忠廉の子)とともに,伊東義祐を高城に破っている。しかし義祐は肝付氏の支族で真幸院(まさきいん)を本拠とする北原氏の内訌につけいり,真幸院に進出。島津氏と三ッ山(宮崎県小林市)を境に対峙をつづけた。飫肥に対する攻撃も執拗で,義祐は62年(永禄5)肝付兼続と結び,飫肥城を陥れている。以後72年(元亀3)の木崎原の戦まで伊東氏は飫肥をはじめ,日向の中心地帯を支配下においていた。しかし77年(天正5)より島津氏の三州攻略の鉾先が強まると,地方領主の反乱も続発,義祐は島津義久・義弘にも攻められて都於郡も捨て豊後に没落した。

1578年豊後の大友義鎮は土持氏を攻めて臼杵郡を制圧,みずから日向に入り島津氏の拠城新納院高城に迫った。この高城川原(耳川)の戦で島津軍が大勝し大友軍は潰走した。島津氏は進んで日向から豊後にまで領域を拡大した。しかし87年豊臣秀吉が大軍を率いて島津氏攻めに乗り出すや,義久・義弘・家久らは根白坂の戦で敗北し,日向口の大将秀長に降伏した。戦後の処分は,都於郡と佐土原は家久の子豊久に,諸県郡は島津久保に,都城は伊集院忠棟(幸侃)に与えられたが,臼杵は高橋元種,飫肥は伊東祐兵,財部・櫛間は秋月種実の領地となった。
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1587年秀吉の九州制圧後,島津氏の勢力下にあった日向の地にも国割りが実施され,のちの日向諸藩の領域がほぼできあがっていった。しかし,統一政権下の領主支配の道は日向でもけっして平坦ではなく,また安定化したものではなかった。県城主高橋元種は高千穂の土豪三田井(みたい)氏の抵抗をうけ,島津氏は都城領主伊集院氏の叛に悩まされた。

 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に際しては,伊東氏を例外として日向諸侯のほとんどが西軍につき,徳川氏の覇権確立後は諸領域に若干の変動がみられた。すなわち島津豊久の戦死にともない佐土原が一時家康の臣庄田三太夫の預りとなり,3年後にあらためて大隅垂水(たるみず)の領主島津以久(ゆきひさ)に与えられた。また02年に諸県郡の大部分が島津氏の所領となり,ついで翌年児湯郡の米良(めら)と臼杵郡の椎葉山の山地が肥後人吉藩に組みこまれた。

 延岡藩では,13年高橋氏が水間勘兵衛事件で領地を没収され,翌年新たに有馬氏が入部したが,その後92年(元禄5)三浦氏が入部して以来譜代藩領となり,1712年(正徳2)牧野氏,47年(延享4)内藤氏と領主の入れかわりが激しかった。これに対し,他の諸藩では領主支配はほとんど変わることなく明治にいたった。また有馬氏の糸魚川転封を契機に富高,穂北,宮崎に新たに天領が設定され,富高におかれた手代と豊後の日田代官(西国筋郡代)による日向諸藩の監視体制がつくり出された。

 戊辰戦争に際して日向諸藩の多くは討幕軍に加わり,京,江戸,東北,奥羽の各地に転戦したが,唯一の譜代であった延岡藩内藤氏のみは,1865年(慶応1)の長州征伐,68年(明治1)の鳥羽・伏見の戦で幕軍に加わり,のち朝廷よりその罪を許されて甲府城の守備に加わるなど微妙な過程を経て維新を迎えた。

維新後,日向の行政区画は変転をきわめた。まず維新政府は1868年1月天領を没収する旨を布告,閏4月,日向5郡中旧天領29ヵ村をおさめて県制をしき,富高県とした。しかし,まもなく8月には同県は廃され,日田県に合併,翌69年2月には旧幕領の集中的掌握をめざして延岡藩領2.7万石と日田県管轄の3.6万石との換地が行われた。また前年8月以来日田県管轄となった椎葉諸村も人吉藩に復した。さらに71年11月には日向国は美々津,都城の2県に統合され,椎葉諸村は美々津県下に,米良諸村は八代県下に組みこまれたが,しかし翌年9月には米良諸村もふたたび日向児湯郡に編入,美々津県の管治するところとなった。その後73年に都城,美々津両県は廃されて宮崎1県の設置をみ,76年には鹿児島県に併合,さらに83年には宮崎県が復活するなど,複雑な変遷をたどったのである。

日向地方は面積の73%は山地であるため,産物も林産物が中心を占める。とくに延岡,飫肥両藩の杉は諸国に良材として聞こえた。また製紙業も各藩内で力が入れられたが,佐土原紙,飫肥の日向和紙の名が中央市場では知られた。盆地の都城領では近世の半ば過ぎ山城宇治から製茶法が導入され,やがて都城茶の名をあげるまでにいたり,後期になって,肥後から導入された製糸業とともに重要な領主的財源となった。高鍋藩では他藩と異なってとくに牧畜に力がいれられた。このほか海岸線をかかえた諸藩では水産業もさかんで,延岡藩の赤水や土々呂(ととろ),高鍋藩の櫛間,飫肥藩の油津などでは塩,鰹節などの製造が行われていた。

中央から遠く,しかも山地と海によって交通の便も悪い日向の地であったが,近世中期以降になると,領主の力入れもあって諸藩の城下町および天領を中心に庶民文化がつちかわれた。佐土原藩では延宝期に4代島津忠高が京都文化の移植につとめたが,城下近くの上江(うわえ)におこった佐土原一座は,九州・四国・中国のみならず,時には大坂あたりにも巡業したことが知られている。飫肥藩でも1707年(宝永4)町衆の踊りに武士が加わることが許され,武家は三京踊,町人は飫肥歌舞伎を演じたという。一方延岡藩では1789年(寛政1)に小唄や浄瑠璃を声高にうたうことを禁じており,町家の華美な生活ぶりに対して,政治改革の一環として取り組まなければならないまでにいたっていたことがわかる。また日向の物資の集散地となった天領本庄あたりでは,豪商たちを中心に,和歌,俳諧,演芸もさかんであったと伝えられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日向国」の意味・わかりやすい解説

日向国
ひゅうがのくに

現在の宮崎県にあたる旧国名。西海道の一つ。国名が史料のうえで最初に確認されるのは698年(文武天皇2)、同国より朱沙(しゅしゃ)が献ぜられたとする『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記事においてである。当時日向国は薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)を含む九州の南東部一帯の総称であったが、8世紀の初めには薩摩・大隅両国が分置され、日向の国域が定まった。国府は現在の西都(さいと)市三宅(みやけ)と推定されている。『延喜式(えんぎしき)』によれば、律令(りつりょう)制下の国の等級は「中国」で、5郡よりなっている。天孫降臨から日向三代までの記紀神話の舞台でもある。

 11~12世紀ごろには都城(みやこのじょう)盆地に島津荘(しまづのしょう)が、臼杵(うすき)郡の五ヶ瀬流域を中心に熊野社領の高知尾(たかちお)荘、宇佐宮領の臼杵荘が、そして宮崎の平野部には国富(くどみ)荘などが形成された。12世紀以降の鎌倉期にそれぞれの荘園が著しい発展をみせたのに伴い、島津荘の総地頭(そうじとう)惟宗(これむね)氏、宇佐宮領の地頭工藤氏、国富荘その他を基盤とする地頭土持(つちもち)氏など、在地勢力の角逐が繰り広げられたが、14世紀の南北朝期には、惟宗を改めた島津氏と、工藤を改めた伊東氏の2氏が勢力を二分した。

 その後、1578年(天正6)には島津義弘(よしひろ)が伊東氏を豊後(ぶんご)に追いやって日向を掌中に収めることに成功、しかし87年に島津氏が豊臣(とよとみ)秀吉に屈服を余儀なくされたあとは、日向は新たに島津氏、その一族の島津豊久(とよひさ)、同じく伊集院忠棟(いじゅういんただむね)、伊東祐兵(すけたけ)、秋月種実(たねざね)、高橋元種らに分給され、近世の錯雑な領域構成の原型がつくりだされた。すなわち、徳川氏の覇権確立後は、高橋元種の県(あがた)5万3000石、その兄秋月種長の高鍋(たかなべ)3万石、島津征久(以久)(ゆきひさ)の佐土原(さどはら)3万石、伊東祐慶(すけのり)の飫肥(おび)5万7000石の各藩のほかに、島津領、椎葉(しいば)・米良(めら)など肥後人吉(ひとよし)領、その預(あずかり)領、さらに中期には天領が加わって領域構成は錯綜(さくそう)を極めた。このうち県(延岡(のべおか))藩のみは高橋、有馬、三浦、牧野、内藤と領主の交替が相次ぎ、三浦氏以後は日向では唯一の譜代(ふだい)藩として明治を迎えた。諸藩とも山地を多く含んでいたため、特産物も杉木、炭、和紙、茶などの林野産物が中心をなし、諸藩ではその販売を通じて大坂・瀬戸内の市場と強く結び付いていたことで、歌舞伎(かぶき)、小唄(こうた)、浄瑠璃(じょうるり)など上方(かみがた)風の文化の流入もみられた。

 維新後の行政区画は、諸藩領の錯雑さを反映して、1871年(明治4)の廃藩置県では、延岡・高鍋・佐土原・飫肥・鹿児島・人吉の6県が置かれ、まもなく美々津(みみつ)・都城の2県へ分轄、73年両県の廃止による宮崎県の設置、76年の鹿児島県への併合、さらに83年宮崎県の復活という複雑な変遷をたどった。

[上原兼善]

『喜田貞吉・日高重孝著『日向国史』上下(1930・史誌出版社)』『松尾宇一著『日向郷土事典』(1954・宮崎市文華堂)』『日高次吉著『宮崎県の歴史』(1970・山川出版社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日向国」の意味・わかりやすい解説

日向国
ひゅうがのくに

現在の宮崎県。西海道の一国。中国。日向は「ひむか」で日に向う意。「記紀」の神話ではニニギノミコトが高天原からこの地に降臨したと伝えるが,考古学的には肯定できない。「記紀」にみえる熊襲 (くまそ) の居住地であったとみられる。日向という地名は,古くは,のちの薩摩,大隅をも含む南九州の総称として用いられた時代もあったらしい。『続日本紀』和銅6 (713) 年4月の条には当国の4郡をさいて大隅国をおくとある。国府,国分寺ともに西都市三宅。『延喜式』には臼杵 (うすき) ,児湯 (こゆ) ,宮崎などの5郡,『和名抄』では 28郷,田 4800町を載せている。鎌倉時代初期,建久8 (1197) 年の『建久図田帳』には 8064町の田を載せているが,その大部分は荘園であり,特に近衛家の島津荘,宇佐八幡宮領,八条女院領国富荘はそれぞれ 1000町をこえる大規模なものであった。鎌倉時代の守護としては初め島津氏が任じられたが,中期以降には北条氏がこれに代った。南北朝時代には畠山氏,一色氏が守護に任じられたが,室町時代には再び島津氏の支配が続いた。その後地頭から台頭した伊東氏が勢力を有したが,やがて豊臣秀吉の勢力のもとに島津氏も屈した。江戸時代には佐土原に島津氏,高鍋に秋月氏,延岡に内藤氏,飫肥 (おび) に伊東氏,宇土に細川氏が封じられて,幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,美々津県,都城県となり,1873年宮崎県に統合された。その後,76年鹿児島県に併合,83年宮崎県を分置した。

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藩名・旧国名がわかる事典 「日向国」の解説

ひゅうがのくに【日向国】

現在の宮崎県鹿児島県の一部を占めた旧国名。天孫降臨神話の舞台となり、西都原(さいとばる)古墳群からは大和朝廷との関係もうかがえる。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の西都市におかれていた。平安時代には島津(しまづ)荘など多くの荘園(しょうえん)が成立した。南北朝時代から島津氏と伊東氏が勢力を二分し、1578年(天正(てんしょう)6)に島津義弘(よしひろ)が支配を確立した。江戸時代には延岡(のべおか)藩高鍋(たかなべ)藩などの藩領と幕府直轄領とに分割され、幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により美々津(みみつ)県と都城(みやこのじょう)県がつくられたが、1873年(明治6)に合併して宮崎県となった。ついで1876年(明治9)に鹿児島県に編入されたが、1883年(明治16)に再置された。◇日州(にっしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「日向国」の意味・わかりやすい解説

日向国【ひゅうがのくに】

旧国名。日州とも。西海道の一国。現在の宮崎県。713年大隅(おおすみ)国を分置。8世紀初めに薩摩(さつま)国を分置したとの説もある。《延喜式》に中国,5郡。国府は現在の西都市。中世の守護はほぼ島津氏。近世は4藩。→島津荘延岡藩
→関連項目飫肥藩九州地方宮崎[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日向国」の解説

日向国
ひゅうがのくに

西海道の国。現在の宮崎県。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」では臼杵(うすき)・児湯(こゆ)・那珂・宮埼・諸県(むらがた)の5郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は児湯郡(現,西都市)におかれた。一宮は都農(つの)神社(現,都農町)。「和名抄」所載田数は4800余町。「延喜式」では調庸として綿・鰒(あわび)など。「古事記」「日本書紀」に天孫降臨以下のいわゆる日向神話がみえる。8世紀初めに薩摩国・大隅国を分出。11世紀前期に現在の都城市付近に成立した島津荘は,その後薩摩国・大隅国に拡大し,鎌倉初期には日向国内約8000町の田地のうち5割弱が島津荘に寄郡(よせごおり)となる。守護は鎌倉時代の大半は北条氏,南北朝期は大友氏・細川氏など。14世紀末に島津氏が守護となり,在地土豪の伊東氏・土持氏と激しく抗争した。江戸時代は,延岡・高鍋・佐土原・飫肥(おび)藩のほかは鹿児島藩領と幕領にわかれ,その領域もたびたび変化した。1871年(明治4)の廃藩置県の後,美々津県・都城県となり,73年宮崎県が成立。76年鹿児島県に合併。83年宮崎県が分離独立,そのとき諸県(もろかた)郡の一部は鹿児島県に所属した。

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