大隅国(読み)オオスミノクニ

デジタル大辞泉 「大隅国」の意味・読み・例文・類語

おおすみ‐の‐くに〔おほすみ‐〕【大隅国】

大隅

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日本歴史地名大系 「大隅国」の解説

大隅国
おおすみのくに

西海道の一国。九州の南端に位置し、東は日向国、西は薩摩国、北は肥後国に接した。南には海を隔てたね(国)があったが、天長元年(八二四)当国に併合された。現在、全域が鹿児島県に属する。「和名抄」東急本国郡部に「於保須美」の訓がある。

古代

〔大隅国の成立〕

「日本書紀」天武天皇一一年(六八二)七月三日条に隼人の朝貢記事があり、阿多あた隼人とともに大隅隼人とみえるのが大隅の地名の確実な初見とされる。この大隅は、のちの大隅国の南半部の地域を意味していたとみられる。大隅国の地域はもと日向国に含まれていた。「続日本紀」大宝二年(七〇二)四月一五日条に「筑紫七国」とみえ、この時期にはまだ大隅・薩摩両国は成立していなかったと考えられる。同書和銅六年(七一三)四月三日条によれば、日向国の肝坏きもつき贈於そお・大隅・あいらの四郡を割き、初めて大隅国が置かれ、西海道の九国三島がそろった。大隅国の分立にあたり住民の抵抗があったらしく、同書同年七月五日条によれば、隼人征討に戦功のあった者に勲位が授けられ、その叙勲者は一千二八〇余名にも上っている。征討軍は大挙しての出兵であったと推測され、抵抗も激しかったのであろう。

大隅国の国庁(国府)桑原くわはら郡あるいは贈於郡に置かれたとされ(「和名抄」など)、移動した可能性もある。現時点での有力比定地である国分市府中ふちゆうは両郡の境界に近いことから、郡境の変動による所属郡の異動とも考えられる。なお国府推定地の東方の国分市中央ちゆうおう一丁目には大隅国分寺跡(調査進行中)があり、布目瓦などが出土し、康治元年(一一四二)銘の石造層塔がある。日向国からの分立時には四郡であったが、その後国府所在郡として和銅七年に桑原郡が分置されたとみられ(続日本紀)、さらに「続日本紀」天平勝宝七年(七五五)五月一九日条に「大隅国菱苅村浮浪九百卅余人言、欲建郡家、許之」とあるように、まもなく菱刈ひしかり郡が設置され、天長元年の多島併合までは六郡で定着した。四郡から六郡への増郡は国域の拡大とみるよりも贈於郡の細分化とみるのがよかろう。大隅建国時の四郡は北半を贈於郡が占め、南半の半島部に大隅・姶羅あいら肝属きもつきの三郡が位置していたとみられる。このうち南半の三郡の地には大和王権の勢力が早く及び、朝貢や畿内移配の政策にも応じていたが、北半の贈於郡域には大和王権の勢力が容易には進出できないでいた。その進出にめどがついたのは、七世紀末から八世紀初めにかけてであった。

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改訂新版 世界大百科事典 「大隅国」の意味・わかりやすい解説

大隅国 (おおすみのくに)

旧国名。隅州。現在の鹿児島県の一部。鹿児島湾奥の海岸部と内陸部,大隅半島部,半島西南海上の種子島・屋久島等の島嶼部の三つからなる。

西海道に属する中国(《延喜式》)。はじめ日向国の一部をなし,襲国(そのくに)とも呼ばれ,熊襲(くまそ)・隼人(はやと)の根拠地とみなされていた。割拠の豪族として大隅直(あたい)や曾君(そのきみ),加士伎県主(かしきあがたぬし),肝衝(きもつき)などの名があり,大隅隼人の首領大隅直の地盤と目される半島東南部肝属(きもつき)川一帯に高塚式古墳が少なくない。薩摩国より数年おくれ,713年(和銅6)〈日向国肝坏(きもつき),贈於(そお),大隅,姶(あいら)の4郡を割いて,初めて大隅国を置く〉(《続日本紀》)ことになった。その後贈於郡から桑原郡を分置,755年(天平勝宝7)にはその北に菱刈郡を新設,さらに824年(天長1)には多褹(たね)島(種子・屋久両島)を廃して大隅国に合併,熊毛(くまげ),馭謨(ごむ)の2郡をおき,合わせて8郡とした。《和名抄》では菱刈郡が4郷,桑原郡が8郷,贈於郡が5郷,大隅郡が7郷,姶羅郡が4郷,肝属郡が4郷,熊毛郡が3郷,馭謨郡が2郷となっている。720年(養老4)大隅隼人の蜂起があり,国守陽候史麻呂(やこのふひとまろ)は殺害された。朝廷では征隼人持節大将軍として大伴旅人を差遣,ようやく乱を鎮定することができたが,以来同国は薩摩国とともに辺境の国として扱われ,班田制の施行も大幅に遅れて800年(延暦19)に行われ,しかもはなはだ不徹底なものであった。国の等級は中国であったが財政的にはきわめて弱体であった。国府は桑原郡(現,国分市府中)にあり,現在もその近隣には守公神社,国分寺跡,隼人塚,台明寺跡,一宮(正八幡宮鹿児島神宮),二宮(蛭子神社),式内社の韓国宇頭峯神社,大穴持神社など関係遺跡が多い。

11世紀はじめ日向で開創された摂関家領島津荘は12世紀鳥羽院政期に入って急速に発展をとげ,大隅においても郡司などはその支配地をあげて寄進し,1197年(建久8)の《大隅国図田帳》によれば,国内全田数3017町余のうち1465町余を占めるに至った。同様に石清水八幡宮を本家とする正八幡宮領も1296町余を占めるに至った。もっとも一円荘は約半分で,残りは寄郡(よせごおり)などの半不輸領であった。すでに古代の郡郷制は乱れており,同格の郡,院,郷,別符等が並立していた。そのうち主として国領と正八幡宮領からなるものとして曾野郡,小河院,桑東郷,桑西郷,帖佐郡,蒲生院,吉田院,加治木郷,禰寝(ねじめ)南俣,栗野院等があり,姶良荘は一円正八幡宮領であった。島津荘は一円荘として深河院,財部院,多禰島があり,半不輸領(寄郡)として横河院,菱刈郡,串良院,鹿屋院,肝付郡,禰寝北俣,下大隅郡などがあった。地頭は島津荘が守護島津忠久,正八幡宮領は中原親能であったが,島津氏は1203年(建仁3)比企氏の乱の縁座で守護職とともに同職を失い,以後北条(名越)氏が鎌倉期を通じて所有した(守護職は一時千葉氏が所持)。正八幡宮領は領家の反対で地頭職が縮小され,やがてほとんど廃止された。各郡院郷には古代以来の豪族が郡司・弁済使などとして在住,鎌倉幕府の御家人となる者が多かった。1198年(建久9)の大隅国御家人交名(きようみよう)33名のうち,14名が国方(在庁官人・郡司)御家人で,19名が宮方(正八幡宮関係)御家人であった。代表的なものに税所(さいしよ)氏や酒井氏,加治木氏禰寝(ねじめ)氏らがいる。

 しかし島津荘の場合は菱刈氏らを例外として肝付郡弁済使をはじめすべて非御家人であった。御家人は京都大番役異国警固番役などの御家人役を守護の統率下に務めねばならなかったから領家側はその二重関係を喜ばず,紛争の原因となった。1276年(建治2)の石築地(いしついじ)役配符には割当てをうける領主名とその御家人・非御家人別が記されているが,はじめ宮方御家人であった蒲生氏や吉田氏ら神官系郡司は多く非御家人に転化している。また島津氏に代わって地頭となった北条(名越)氏は肥後氏ら代官を通じて現地の支配を強化しようとしたので,肝付氏ら在地の豪族らと激しい紛争を生んだ。北条氏が滅亡した後,南北朝期肝付氏が南朝方として,北条氏に代わって守護兼地頭として入部してきた武家方の島津氏に執拗(しつよう)な抵抗をつづけた原因の一つはここにあろう。ついで大隅には肝付氏に代わって日向の楡井(にれい)氏が進出,南朝方の中心として活躍した。島津氏久がもっぱらこれに当たり,日向から入部してきた畠山直顕も協力した。しかしやがて畠山氏と島津氏が大隅の支配権をめぐって争うことになり,一時は大隅国の豪族の大半は畠山方について島津氏を苦しめた。その後今川了俊は反抗する島津氏久を牽制するため,一時はみずから守護職を兼帯し,大隅国の豪族を中心に一揆を結成させ,対抗させたりした。このようにして島津氏の大隅支配は難渋を極めたが,氏久・元久らは鹿児島東福寺城から大隅大姶良城に入り,さらに日向志布志内城に入って形勢の挽回を策し,しだいに大隅国の豪族にも所領を預け置くなどして帰服させていった。室町期に入るころにはほぼ大隅はその勢力下に入ったといえよう。

 元久の次の久豊は薩摩に勢力を伸ばし総州家島津氏を圧倒し,さらに日向にも勢力を伸張し,伊東氏らと抗争している。久豊のあと忠国の代はむしろ地方豪族と結ぶ一族の有力者の勢力の台頭の対策に苦慮した。その頂点が忠昌の代であった。忠昌は領内を巡狩し,その統制に腐心したが,肝付氏らを服属できず,1508年(永正5)自殺したほどである。忠昌の次の忠治・忠隆代はむしろ腹心の家臣となっていた蒲生・吉田氏らの離反に苦しむこととなった。次の勝久はついに禰寝氏を頼り,35年(天文4)には帖佐に走り,大隅から日向,さらに豊後に移った。勝久没落後その跡職をめぐり,薩州家の実久と相州・伊作家の忠良・貴久父子が争ったが,後者が制覇し,貴久はすすんで大隅の菱刈・蒲生氏らの制圧に努めた。69年(永禄12)ついに鳥神尾の戦で菱刈・相良軍を撃破,ここに大隅地方はほとんど制圧され,74年(天正2)肝付・伊地知・禰寝氏らの帰服も実現した。その後島津氏は日向,さらにすすんで肥後,肥前,豊後,筑後など北九州まで兵を進めたが,87年の豊臣秀吉の九州入り,島津攻めにより降伏。大隅の地は大半が島津義弘に安堵されたが,肝付一郡は伊集院忠棟(幸侃)に与えられた。94年(文禄3)には太閤検地が実施され,大隅国は17万557石余と算出され,うち加治木1万石は太閤蔵入分,曾於郡清水の内曾小川村ほか6328石余が石田三成分,肝付郡内岩広村ほか3005石余は細川幽斎分とされ,他は島津義久・義弘の蔵入分,それに伊集院忠棟(末吉ほか),島津以久(種子島,恵良部島,屋久島)知行分となった。このうち義弘蔵入分吉田村は薩摩国鹿児島郡とあり,中世の吉田院が大隅国から薩摩国に編入されたことがわかる。義弘は帖佐より晩年加治木に移り,義久は鹿児島より富隈に,さらに国分に移っている。帖佐建昌城,国分新城はその後も鹿児島城に代わる本城の候補地とみられてきた。
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1587年(天正15)姶羅郡吉田郷が薩摩国に編入されたが,疆域は旧のように一定し,また慶長の役での島津義弘の泗川の軍功により,1595年(文禄4)6月細川幽斎領,太閤直轄地(代官石田三成)が返地となったので,以来島津氏の一円領地となった。隅州高は,島津氏総高86万7028石余のうち25万5085石余が藩政期最後の検地高(1725・享保10)である。姶羅郡(帖佐,私領重富,蒲生,山田,溝辺,私領加治木),囎唹郡(国分郷のうち東国分,清水,曾於郡,敷根,福山,財部,末吉,恒吉,私領市成。1869年(明治2)末吉より私領岩川が分立),桑原郡(国分郷のうち西国分,日当山,踊,横川,栗野,吉松),菱刈郡(本城,曾木,湯之尾,馬越),大隅郡(桜島,牛根,垂水,私領垂水,小根占,大根占,田代,佐多),肝付郡(百引,高隈,私領新城,同花岡,鹿屋,大姶良,姶良,高山,内之浦,串良),熊毛郡(私領種子島),馭謨郡(屋久,口永良部島。1612年(慶長17)種子島より本府収公)の8郡40直轄郷,8私領より成る。なお財部,末吉郷の一部は日向国にも属する。大隅国は島津氏に対抗した蒲生,菱刈,禰寝,肝付などの豪族支配地であったから,平定以後はそれらの家臣団を解体して薩摩地方に移したり,または農民化して,島津氏股肱(ここう)を各地より移して支配体制を固めた。近世における大事件は1599年(慶長4)の伊集院忠棟の子忠真の庄内の乱,1708年(宝永5)8月のイタリア人宣教師シドッチの屋久島密上陸である。薩摩地方とは生産力の格差が大きいので,薩摩藩当局は人配(にんばい)という政策をとって,薩摩の過剰人口を大隅に移すことに努めた。屋久杉,樟脳,櫨蠟,黒糖,鰹節,煎汁,菜種子,薩摩芋の特産がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大隅国」の意味・わかりやすい解説

大隅国
おおすみのくに

西海道(さいかいどう)九州の一国。薩摩(さつま)・日向(ひゅうが)とともに奥三州とよばれた。現在の鹿児島県の東半部にあたる。大隅半島を中心に、内陸部、沿海部と種子島(たねがしま)、屋久島(やくしま)などの島嶼(とうしょ)部とからなる。古(いにしえ)の襲国(そのくに)にあたり、初めは日向の一部で熊襲(くまそ)、隼人(はやと)の根拠地。大隅直(あたい)や、曽君(そのきみ)、加士伎県主(かじきあがたぬし)らの豪族が割拠し、半島南東部肝属(きもつき)川付近一帯にその墓と思われる高塚式古墳が多い。713年(和銅6)日向国肝坏(きもつき)、囎唹(そお)、大隅、姶(あいら)の4郡を割いて大隅国を創設。その後囎唹郡より桑原郡を分出、755年(天平勝宝7)には菱刈(ひしかり)郡をその北に新設、824年(天長1)には多褹島(たねのしま)を廃して大隅国にあわせ、熊毛(くまげ)、馭謨(ごむ)の2郡を置いた。等級は中国、国府は桑原郡(霧島(きりしま)市国分(こくぶ)府中)にあった。720年(養老4)大隅隼人の反乱があり、国守陽候史麻呂(やこのふひとまろ)が殺された。朝廷は大伴旅人(おおとものたびと)を征隼人大将軍として派遣、鎮定した。辺境の遠国として薩摩とともに班田制の施行も遅れ、800年(延暦19)ようやく実施をみた。

 11世紀初め日向国に開創の島津荘(しょう)は、郡司ら地方豪族の寄進により大隅国にも拡大、1197年(建久8)の「大隅国図田帳(ずでんちょう)」によれば、国内全田数3017町余のうち1465町余を占めるに至った。同じく大隅国一宮(いちのみや)たる正八幡宮(しょうはちまんぐう)領も1296町余を占め、それぞれ約半分宛(ずつ)が一円領および半不輸領であった。古代の郡郷制も乱れ、曽野(その)郡、小河(おがわ)院、桑東(くわのとう)郷、桑西郷などあわせて20余の郡、院、郷に分かれ、その各郡司、弁済使(べんさいし)などが地方有力武士として活躍した(30余名の鎌倉御家人交名(ごけにんきょうみょう)あり)。守護は鎌倉時代初め島津氏で、のち北条氏にかわり、一時千葉氏も就任した。南北朝時代には島津氏と畠山(はたけやま)氏が支配権をめぐって争い、島津氏久(うじひさ)は大隅国守護(しゅご)職を世襲、室町時代には、子の元久(もとひさ)、久豊(ひさとよ)らが相続した。しかし菱刈、蒲生(かもう)、吉田、税所(さいしょ)、加治木(かじき)、肝付(きもつき)、禰寝(ねじめ)氏などの諸豪族は容易にその支配に服さず、戦国末期の貴久(たかひさ)、義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)の代に至ってようやく島津氏領国として統一された。1587年(天正15)の豊臣(とよとみ)秀吉の進攻により、一時その領有を脅かされたが、太閤(たいこう)検地を経てその領主権はかえって強化された。この間、吉田院が大隅国から薩摩国に編入されるなど国境の変更もあった。義久は晩年富隈(とみのくま)より国分に、義弘は栗野(くりの)、平松、帖佐(ちょうさ)などを経て加治木に居館を構え、鹿児島居城の家久(いえひさ)の統治を助けた。江戸時代も、島津氏の所領として幕末に至る。1871年(明治4)の廃藩置県の結果、大隅はすべて鹿児島県に編入されたが、同年都城(みやこのじょう)県の新設により一時同県に編入、73年その廃止によりふたたび鹿児島県の所管に帰している。

 古来、薩摩に比し人口が過疎で、近世には積極的に人移しが行われ、笠之原(かさのはら)の開拓や、各地の新田開発が進められてきたが、なお現在に至るも人口密度は薩摩と対照的に低い。産業は農業が主で、甘藷(かんしょ)、甘蔗(かんしゃ)、菜種(なたね)、煙草(たばこ)などが多くつくられ、牧畜も盛んであった。隼人塚(霧島市隼人町)、国分寺跡・台明寺(だいみょうじ)跡(同市)などの古代史跡も多い。

[五味克夫]


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百科事典マイペディア 「大隅国」の意味・わかりやすい解説

大隅国【おおすみのくに】

旧国名。隅州とも。西海道の一国。今の鹿児島県東部,および種子島・屋久島を含む。古くは熊襲(くまそ)の住む襲の国,のち大隅隼人(はやと)の本拠とされた。713年日向(ひゅうが)国から分置。《延喜式》に中国,8郡。中世から近世にかけて島津氏の支配下にはいる。
→関連項目鹿児島[県]九州地方島津荘種子島屋久島

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大隅国」の意味・わかりやすい解説

大隅国
おおすみのくに

現在の鹿児島県大隅半島屋久島種子島奄美大島などを含む西海道の一国。中国。もと熊襲国とも呼ばれたが,熊襲は「クマ」と「ソ」との2国を合わせた名称。和銅6 (713) 年日向国の4郡をさいて大隅国としたのが始まり。天長1 (824) 年には多ね国 (たねのくに) を廃して馭謨郡 (ごむぐん) ,熊毛郡 (くまげぐん) として大隅国に加えた。国府,国分寺ともに霧島市国分。『延喜式』には馭謨郡,桑原郡,囎唹郡 (そおぐん) の3郡があり,『和名抄』には郷 36,田 4800町余が記載されている。この国は日本の南西端にあたったため,律令制による班田も延暦 19 (800) 年にようやく実施された。中世以降,名越氏,千葉氏,金沢氏,島津氏らが守護となり,江戸時代に入ってからも島津氏が引き続き支配した。明治4 (1871) 年廃藩置県で鹿児島県となる。

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藩名・旧国名がわかる事典 「大隅国」の解説

おおすみのくに【大隅国】

現在の鹿児島県大隅半島を中心とする東半部を占めた旧国名。古くは襲国(そのくに)と呼ばれ、熊襲(くまそ)、隼人(はやと)の根拠地だった。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の霧島(きりしま)市におかれていた。平安時代に多くの荘園(しょうえん)が成立し、末期にはほとんどが摂関家(せっかんけ)島津荘(しまづのしょう)となり、下司に島津氏が任じられた。その後、島津氏と在地土豪との抗争が続いたが、南北朝時代以降、江戸時代を通じて島津氏が領有、幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により鹿児島県に編入されたが、都城(みやこのじょう)県の新設で同県に編入、1873年(明治6)都城県の廃止で再び鹿児島県に移管。◇隅州(ぐうしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大隅国」の解説

大隅国
おおすみのくに

西海道の国。現在の鹿児島県東半部。「延喜式」の等級は中国。713年(和銅6)日向国の贈於(そお)(囎唹)・大隅・肝坏(属)(きもつき)・姶羅(あいら)の4郡を割いて建国された。その後豊前・豊後の移民により桑原郡が,755年(天平勝宝7)浮浪人の申請により菱刈郡が成立。824年(天長元)には旧多(たね)島の熊毛郡・馭謨(ごむ)郡を吸収した。国府・国分寺は桑原郡(現,霧島市)におかれた。一宮は鹿児島神社(現,霧島市)。当国の隼人は713年と720年(養老4)に反乱をおこしており,班田制導入は800年(延暦19)となった。「和名抄」の所載田数は4800余町。調庸は綿・布。古代末には多くの院・郷が成立し,鎌倉初期,島津荘・寄郡(よせごおり)が当国全田数の約5割,正八幡宮(鹿児島神社)領が約4割を占めた。鎌倉時代の守護職の大半は北条氏で(短期間島津氏・千葉氏),南北朝期以降島津氏が保持したが,各地の豪族の力が強く,16世紀後半に島津氏の支配が確立した。近世も一貫して島津氏の鹿児島藩領で,1871年(明治4)の廃藩置県により鹿児島県となる。

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