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大隅国 おおすみのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大隅国
おおすみのくに

現在の鹿児島県大隅半島屋久島種子島奄美大島などを含む西海道の一国。中国。もと熊襲国とも呼ばれたが,熊襲は「クマ」と「ソ」との2国を合わせた名称。和銅6 (713) 年日向国の4郡をさいて大隅国としたのが始まり。天長1 (824) 年には多ね国 (たねのくに) を廃して馭謨郡 (ごむぐん) ,熊毛郡 (くまげぐん) として大隅国に加えた。国府,国分寺ともに霧島市国分。『延喜式』には馭謨郡,桑原郡,囎唹郡 (そおぐん) の3郡があり,『和名抄』には郷 36,田 4800町余が記載されている。この国は日本の南西端にあたったため,律令制による班田も延暦 19 (800) 年にようやく実施された。中世以降,名越氏,千葉氏,金沢氏島津氏らが守護となり,江戸時代に入ってからも島津氏が引き続き支配した。明治4 (1871) 年廃藩置県で鹿児島県となる。

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デジタル大辞泉の解説

おおすみ‐の‐くに〔おほすみ‐〕【大隅国】

大隅

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百科事典マイペディアの解説

大隅国【おおすみのくに】

旧国名。隅州とも。西海道の一国。今の鹿児島県東部,および種子島・屋久島を含む。古くは熊襲(くまそ)の住む襲の国,のち大隅隼人(はやと)の本拠とされた。713年日向(ひゅうが)国から分置。
→関連項目鹿児島[県]九州地方島津荘種子島屋久島

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

おおすみのくに【大隅国】

現在の鹿児島県大隅半島を中心とする東半部を占めた旧国名。古くは襲国(そのくに)と呼ばれ、熊襲(くまそ)、隼人(はやと)の根拠地だった。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の霧島(きりしま)市におかれていた。平安時代に多くの荘園(しょうえん)が成立し、末期にはほとんどが摂関家(せっかんけ)島津荘(しまづのしょう)となり、下司に島津氏が任じられた。その後、島津氏と在地土豪との抗争が続いたが、南北朝時代以降、江戸時代を通じて島津氏が領有、幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により鹿児島県に編入されたが、都城(みやこのじょう)県の新設で同県に編入、1873年(明治6)都城県の廃止で再び鹿児島県に移管。◇隅州(ぐうしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

おおすみのくに【大隅国】

旧国名。隅州。現在の鹿児島県の一部。鹿児島湾奥の海岸部と内陸部,大隅半島部,半島西南海上の種子島・屋久島等の島嶼部の三つからなる。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。はじめ日向国の一部をなし,襲国(そのくに)ともよばれ,熊襲(くまそ)・隼人(はやと)の根拠地とみなされていた。割拠の豪族として大隅直(あたい)や曾君(そのきみ),加士伎県主(かしきあがたぬし),肝衝(きもつき)などの名があり,大隅隼人の首領大隅直の地盤と目される半島東南部肝属(きもつき)川一帯に高塚式古墳が少なくない。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大隅国
おおすみのくに

西海道(さいかいどう)九州の一国。薩摩(さつま)・日向(ひゅうが)とともに奥三州とよばれた。現在の鹿児島県の東半部にあたる。大隅半島を中心に、内陸部、沿海部と種子島(たねがしま)、屋久島(やくしま)などの島嶼(とうしょ)部とからなる。古(いにしえ)の襲国(そのくに)にあたり、初めは日向の一部で熊襲(くまそ)、隼人(はやと)の根拠地。大隅直(あたい)や、曽君(そのきみ)、加士伎県主(かじきあがたぬし)らの豪族が割拠し、半島南東部肝属(きもつき)川付近一帯にその墓と思われる高塚式古墳が多い。713年(和銅6)日向国肝坏(きもつき)、囎唹(そお)、大隅、姶(あいら)の4郡を割いて大隅国を創設。その後囎唹郡より桑原郡を分出、755年(天平勝宝7)には菱刈(ひしかり)郡をその北に新設、824年(天長1)には多(たねのしま)を廃して大隅国にあわせ、熊毛(くまげ)、馭謨(ごむ)の2郡を置いた。等級は中国、国府は桑原郡(霧島(きりしま)市国分(こくぶ)府中)にあった。720年(養老4)大隅隼人の反乱があり、国守陽候史麻呂(やこのふひとまろ)が殺された。朝廷は大伴旅人(おおとものたびと)を征隼人大将軍として派遣、鎮定した。辺境の遠国として薩摩とともに班田制の施行も遅れ、800年(延暦19)ようやく実施をみた。
 11世紀初め日向国に開創の島津荘(しょう)は、郡司ら地方豪族の寄進により大隅国にも拡大、1197年(建久8)の「大隅国図田帳(ずでんちょう)」によれば、国内全田数3017町余のうち1465町余を占めるに至った。同じく大隅国一宮(いちのみや)たる正八幡宮(しょうはちまんぐう)領も1296町余を占め、それぞれ約半分宛(ずつ)が一円領および半不輸領であった。古代の郡郷制も乱れ、曽野(その)郡、小河(おがわ)院、桑東(くわのとう)郷、桑西郷などあわせて20余の郡、院、郷に分かれ、その各郡司、弁済使(べんさいし)などが地方有力武士として活躍した(30余名の鎌倉御家人交名(ごけにんきょうみょう)あり)。守護は鎌倉時代初め島津氏で、のち北条氏にかわり、一時千葉氏も就任した。南北朝時代には島津氏と畠山(はたけやま)氏が支配権をめぐって争い、島津氏久(うじひさ)は大隅国守護(しゅご)職を世襲、室町時代には、子の元久(もとひさ)、久豊(ひさとよ)らが相続した。しかし菱刈、蒲生(かもう)、吉田、税所(さいしょ)、加治木(かじき)、肝付(きもつき)、禰寝(ねじめ)氏などの諸豪族は容易にその支配に服さず、戦国末期の貴久(たかひさ)、義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)の代に至ってようやく島津氏領国として統一された。1587年(天正15)の豊臣(とよとみ)秀吉の進攻により、一時その領有を脅かされたが、太閤(たいこう)検地を経てその領主権はかえって強化された。この間、吉田院が大隅国から薩摩国に編入されるなど国境の変更もあった。義久は晩年富隈(とみのくま)より国分に、義弘は栗野(くりの)、平松、帖佐(ちょうさ)などを経て加治木に居館を構え、鹿児島居城の家久(いえひさ)の統治を助けた。江戸時代も、島津氏の所領として幕末に至る。1871年(明治4)の廃藩置県の結果、大隅はすべて鹿児島県に編入されたが、同年都城(みやこのじょう)県の新設により一時同県に編入、73年その廃止によりふたたび鹿児島県の所管に帰している。
 古来、薩摩に比し人口が過疎で、近世には積極的に人移しが行われ、笠之原(かさのはら)の開拓や、各地の新田開発が進められてきたが、なお現在に至るも人口密度は薩摩と対照的に低い。産業は農業が主で、甘藷(かんしょ)、甘蔗(かんしゃ)、菜種(なたね)、煙草(たばこ)などが多くつくられ、牧畜も盛んであった。隼人塚(霧島市隼人町)、国分寺跡・台明寺(だいみょうじ)跡(同市)などの古代史跡も多い。[五味克夫]

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