警固屋村
けごやむら
[現在地名]津久見市港町・セメント
町、
下青江 港町・
小網代通・
浜町・セメント町
津久見湾の湾奥、青江川河口右岸の海岸部に位置し、南は宮本村。村名は大友宗麟が隠居後、津久見岩屋の茶亭で遊んだ際その警固の士が当地にいたことに由来するという(臼杵小鑑)。毛小屋・堅固屋・稽固屋などとも記した。初め佐伯藩領であったが、慶長六年(一六〇一)臼杵藩との間で領地交換が行われ、臼杵藩領となった(九月一〇日「稲葉貞通書状」毛利家文書)。しかし慶長二年の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえることから、交換の時期・経緯などは判然としない。同帳写によると高七七石余(田方五一石余・畑方二五石余)、村位は上。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳でもほぼ同高で、本高六九石余・出来高八石余、水損所、柴山が少しある。
警固屋村
けごやむら
[現在地名]呉市警固屋一―九丁目・的場一―五丁目・見晴一―三丁目・警固屋町
三津峰山(三八〇・六メートル)の南麓、半島先端部に位置し、北東は賀茂郡阿賀村、北は宮原村に接し、南西は音戸ノ瀬戸を挟んで倉橋島(現安芸郡音戸町)に対する。村内はほとんど山地で「山間に田を開く」(芸藩通志)といわれ、海岸に山が迫るが、所々に狭い低地が散在し小集落がある。安芸郡に属した。地名について「芸藩通志」は「香川
臣云、けごやは食小屋なるべし、平相国、迫門を切ぬかれし時、食廠をこゝに設けられし故、此名を得と」と記し、さらに「毛利家の時警固屋を置き、海寇に備へし所」という説などをあげる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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