日本大百科全書(ニッポニカ) 「臼杵藩」の意味・わかりやすい解説
臼杵藩
うすきはん
豊後(ぶんご)国海部(あまべ)郡臼杵(うすき)(大分県臼杵市)に藩庁を置いた藩。藩主稲葉氏。外様(とざま)。1593年(文禄2)豊後一国を支配した大友義統(よしむね)の除封後、福原直高(なおたか)(6万石)が臼杵に入ったが、1597年(慶長2)直高は府内に移り、かわって太田一吉(かずよし)(3万5000石)が臼杵に入った。しかし1600年(慶長5)関ヶ原の戦いが起こると、西軍に属した一吉は豊後岡の中川秀成(ひでなり)に攻め落とされ、このあと美濃(みの)(岐阜県)八幡城主稲葉貞通(さだみち)が同戦の戦功によって海部、大野、大分3郡に5万0060石余を与えられ臼杵に入った。貞通のあと典通(のりみち)、一通(かずみち)、信通(のぶみち)、景通(かげみち)、知通(ともみち)、恒通(つねみち)、董通(まさみち)、泰通(やすみち)、弘通(ひろみち)、雍通(てるみち)、尊通(たかみち)、幾通(ちかみち)、観通(あきみち)、久通(ひさみち)と15代続き、廃藩置県に至った。正徳(しょうとく)(1711~16)ごろから藩財政が窮乏し始め、1811年(文化8)には大野郡三重郷から百姓一揆(いっき)が起こって領内に広がり、1830年(天保1)には借財が26万両に達した。このため翌年、家老村瀬庄兵衛(しょうべえ)を総元締として天保(てんぽう)の改革を実施、いちおうの成果をあげた。1871年(明治4)7月廃藩、臼杵県となり、同年11月大分県に統合された。
[柴多一雄]