デジタル大辞泉
「呉市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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呉市
くれし
面積:一四五・一五平方キロ
瀬戸内海に面して位置し、旧安芸郡東南部と旧賀茂郡西南部よりなる。東は豊田郡川尻町・安浦町、北は賀茂郡黒瀬町・安芸郡熊野町、西北は広島市安芸区・安芸郡坂町に接し、西および南は海に面し、安芸郡の江田島・倉橋島・下蒲刈島などに対する。市域で最も発達しているのは休山(五〇〇メートル)山塊を挟んだ西の呉平野と東の広平野で、それぞれ二河川・広大川(黒瀬川下流)の土砂の堆積による三角州と干拓新開地とからなる。市の東境は野呂山(八三九・四メートル)を中心とする支脈の山地が延び、北境にもそれに劣らぬ高さの灰ヶ峰(七三七メートル)が急斜面を南に向けてそびえ、その支脈が長く延び、西北には二〇〇―五〇〇メートルの海に迫る山地が市境をなす。呉湾・広湾を除く海岸部も急崖の山地が迫り、集落の発達を妨げる。南海上の情島・小情島も市域に含まれる。
呉の名は永暦元年(一一六〇)六月二八日付の美福門院令旨(高野山文書)に「安摩庄呉浦事」として「召取国司庁宣、成副庁御下文、遣僧正御許了、自彼定奉送歟」とあるのが初見で、元暦二年(一一八五)正月九日付の源頼朝下文(石清水文書)で八幡宮寺領をあげたなかに「安芸国呉保」があり、「右件庄々者八幡宮寺往古神領也、而近年之間依平家追討、守護武士等或猥抑留御年貢、或宛催兵糧米(下略)」とある。なお呉の訓については康応元年(一三八九)の「鹿苑院殿厳島詣記」に「内の海、かうしろ、ひろ、くれ、はたみ(中略)かやうの浦々過させ給へり」とあり、「くれ」と読んだことが知られる。ただし呉の地名は、呉浦を包含するとされる宮原・和庄・庄・山田の地(呉平野)が、灰ヶ峰を中心とする九つの嶺に囲まれるため九嶺と称するとも、灰ヶ峰から切出された榑木(船材に用いる)によるとも、文字どおり渡来人の呉人に起因するなどともいわれるが、いずれも確証はない。
〔原始・古代〕
縄文時代前期から晩期の土器および石鏃・石棒・石錘・刃器の出土した土山山麓で標高約一八〇メートルの地にある郷原遺跡(郷原町東遅越)、縄文時代後期・晩期の土器・土師器や板状土偶などが出土した吉松山の西端の谷の北斜面にある芦冠遺跡(広町芦冠)が知られ、また弥生時代後期の遺物出土地の郷原町(蛤刃石斧)・苗代町戸石山(石槌)・焼山町荒蒔峠(同)・栃原町平小管(壺形土器)などがあるが、本格的調査はあまり行われていない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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呉〔市〕
くれ
広島県南西部,広島湾南東岸の市。 1902年市制。 1928年吉浦町,警固屋 (けごや) 町,阿賀町の3町,1941年広村,仁方 (にがた) 町,1956年天応町と昭和村,郷原村の2村,2003年下蒲刈町,2004年川尻町,2005年音戸町,倉橋町,蒲刈町,安浦町,豊浜町,豊町の6町をそれぞれ編入。中心市街地の呉は 1889年海軍鎮守府が設置され,海軍工廠ができてから,軍港として急速に発展。第2次世界大戦時には人口 40万をこえたが軍施設は集中的な戦火により壊滅した。戦後,産業港湾都市として再出発,1948年貿易港の指定を受け,1950年旧軍港市転換法の成立もあり海軍工廠跡や臨海地区に造船,製鉄,製鋼,機械,パルプなどの大企業が進出して臨海工業地域を形成。県下有数の工業生産額を誇る。呉港は瀬戸内海航路の要地。倉橋島,上蒲刈島,大崎下島などの島々ではミカンの栽培,カキやノリの養殖が盛ん。伝統産業としては,仁方のやすりが全国生産のほとんどを占めるほか清酒醸造や天応の万年筆,吉浦の砥石などがある。呉市街地の南に入船山記念館,広に石泉塾跡がある。北部の野呂山,二級峡,南部の休山 (やすみやま) 一帯と,倉橋島,大崎下島などの一部は瀬戸内海国立公園に属する景勝地。 JR呉線のほか国道 31号線,185号線,375号線が通り,1961年には対岸の倉橋島との間に音戸大橋が建設され,国道 487号線が通じている。本土の呉,阿賀,仁方と広島,松山,今治などを結ぶ定期船が就航しており,各島も経由している。面積 352.83km2。人口 21万4592(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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