豊成村(読み)とよなりむら

日本歴史地名大系 「豊成村」の解説

豊成村
とよなりむら

[現在地名]河辺町豊成

岩見いわみ川の下流右岸にあり、北はすぐに末戸すえど(河岸段丘)となり、南は川を隔てて野田高屋のだこうや村、畠谷はたや村と接する。羽州街道が通り、野田高屋村との間に「豊成わたり、又三のわたし」(秋田風土記)があった。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「弐百四拾六石三升弐合 極楽寺豊成村」とある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には記載がなく、享保一四年(一七二九)の河辺郡御黒印高帳に高九五石余とあり、うち新田高は六三石。天保郷帳に「古者 豊成新田村」とある。


豊成村
とよなりむら

[現在地名]市原市豊成・泉台いずみだい

不入斗いりやまず村の南東に位置する。応安五年(一三七二)五月の市原八幡宮五月会馬野郡四村配分帳(覚園寺文書)に豊成郷とみえ、宮の五月会では一三貫三〇〇文と小瓶子二〇が課されていた。応永期(一三九四―一四二八)と推定される馬野郡惣勘文(同文書)では豊成一三町七反六〇歩(三斗代)としている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一二五石。正保国絵図でも同高で、元禄郷帳では高一二九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一四七石余で家数一七、旗本渡辺領。文政一〇年(一八二七)より鶴牧藩領で幕末に至る。天保一四年(一八四三)の日光社参人馬雇賃銭割当では金一両一分・永二〇八文余を負担(慶応大学蔵文書)


豊成村
とよなりむら

[現在地名]五所川原市豊成

大釈迦だいしやか丘陵西端に位置し、東南俵本たわらもと村、西は浅井あさい村、北は福山ふくやま村に接する。

宝永元年(一七〇四)取立ての村といわれ(長橋村誌)、元文元年(一七三六)検地帳は豊成村田方一三町六反六畝六歩、屋敷を除いた畑方一七町三反三畝二二歩、田畑屋敷合せて三一町二反二畝三歩、村高一一二・五二一石と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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