豊津町
とよつまち
[現在地名]豊津町豊津
明治初めに豊津藩(旧小倉藩・香春藩)の藩庁が置かれた町場。今川・祓川の開析により形成された標高約三〇―九〇メートルの台地(豊津台地)には縄文時代から平安時代にかけての遺跡が確認されるが、江戸時代初期の頃には無住の原野で、多くが仲津郡国分村の内に含まれていた。元禄七年(一六九四)に豊前・豊後を旅した貝原篤信(益軒)は、この台地を「国分原」と記している(豊国紀行)。しかし地元では難行原(南郷原などとも書く)とよぶのが一般的であった(国作手永大庄屋文書など)。台地周辺部では徳政・上坂・光冨・彦徳・国作、久富・続命院・花熊(現犀川町)、矢留(現行橋市)の各村の境界が複雑に入組んでいた(「龍吟成夢・豊津略誌」松井家文書)。またかつて彦山松会神事の汐井採りの際、山伏がこの台地を通行し「経塚ノ前」で修法を行うのが慣例であった(「吉書集議」松養家文書)。天保一〇年(一八三九)一〇月郡代原源左衛門の発意により台地の開発が始められ、台地は錦原と改称、形成された小規模な在郷町は錦原町とよばれた(「亥御用日記」国作手永大庄屋文書)。大村(現犀川町)にあった下本陣が移されるとともに、常設の芝居小屋、今井村(現行橋市)の浄喜寺の掛所、今井祇園社の仮宮などが建設された(「錦原開発ニ付夫遣一切調子帳」勢島家文書など)。急普請によって同一一年六月までに約四〇軒の町家が建設され(中村平左衛門日記)、柏屋など大橋村(現行橋市)の商人が出店を開いた。
豊津町
とよつまち
面積:一九・三四平方キロ
京都郡の東部に位置し、北は行橋市、東は築上郡築城町、南から西は犀川町に接する。東に祓川、西に今川が北流し、町域は両川によって開析された丘陵・段丘と沖積平野で構成されている。今川東岸を平成筑豊鉄道田川線が走り、新豊津駅がある。国道一〇号バイパスが北東部を、同四九六号が中央部を南北に通る。古代から近世まで豊前国仲津郡に属した。豊前国府所在地は現国作・惣社地区に推定されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 