豊田貞次郎
とよだていじろう
(1885―1961)
海軍軍人(大将)、政治家。和歌山県生まれ。海軍兵学校卒業。オックスフォード大学留学後、海軍大学校卒業。ジュネーブ軍縮会議随員、ロンドン軍縮会議随員などを経て、1931年(昭和6)海軍省軍務局長となる。その後、呉工廠(くれこうしょう)長、航空本部長など技術畑を歩く。1940年第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣海軍次官、1941年大将となり同内閣商工相となる。同年第三次近衛内閣外相兼拓相に就任、日米交渉にあたる。同年日本製鉄社長に就任、鉄鋼生産に携わる。1945年鈴木貫太郎内閣軍需相兼運輸通信相。敗戦後、貴族院議員となったが公職追放。1956年(昭和31)日本ウジミナス会長。
[小田部雄次]
『豊田貞次郎回想録編集委員会編『豊田貞次郎回想録』(1962・日本ウジミナス)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
豊田 貞次郎
トヨダ テイジロウ
大正・昭和期の海軍大将,政治家,実業家 貴院議員(勅選);外相;日本製鉄社長。
- 生年
- 明治18(1885)年8月7日
- 没年
- 昭和36(1961)年11月21日
- 出生地
- 和歌山県
- 学歴〔年〕
- 海兵(第33期)〔明治38年〕卒,海大〔大正8年〕卒
- 経歴
- 明治39年海軍少尉、44〜大正3年英国に駐在、オックスフォード大に留学。帰国後第4戦隊参謀、英国大使館付武官を経て、昭和2年ジュネーブ軍縮会議随員、4年ロンドン軍縮会議随員、5年横須賀鎮守府参謀長、6年軍務局長、7年広島工廠長、11年呉工廠長、12年佐世保鎮守府司令長官、13年航空本部長、15年第2次近衛文麿内閣の海軍次官、16年大将、商工相となり予備役。16年7月第3次近衛内閣外相。同年12月〜20年7月日本製鉄社長。同年4月には鈴木貫太郎内閣の軍需相兼運輸通信相となり敗戦。貴族院議員となったが、公職追放、解除後31年日本ウジミナス会長など財界の要職に就いた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
豊田 貞次郎
トヨダ テイジロウ
- 肩書
- 貴院議員(勅選),外相,日本製鉄社長
- 生年月日
- 明治18年8月7日
- 出生地
- 和歌山県
- 学歴
- 海兵(第33期)〔明治38年〕卒 海大〔大正8年〕卒
- 経歴
- 明治39年海軍少尉、44〜大正3年英国に駐在、オックスフォード大に留学。帰国後第4戦隊参謀、英国大使館付武官を経て、昭和2年ジュネーブ軍縮会議随員、4年ロンドン軍縮会議随員、5年横須賀鎮守府参謀長、6年軍務局長、7年広島工廠長、11年呉工廠長、12年佐世保鎮守府司令長官、13年航空本部長、15年第2次近衛文麿内閣の海軍次官、16年大将、商工相となり予備役。16年7月第3次近衛内閣外相。同年12月〜20年7月日本製鉄社長。同年4月には鈴木貫太郎内閣の軍需相兼運輸通信相となり敗戦。貴族院議員となったが、公職追放、解除後31年日本ウジミナス会長など財界の要職に就いた。
- 没年月日
- 昭和36年11月21日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
豊田貞次郎 とよだ-ていじろう
1885-1961 大正-昭和時代前期の軍人,政治家。
明治18年8月7日生まれ。昭和15年海軍次官。16年海軍大将,予備役となり第2次近衛内閣の商工相。第3次近衛内閣の外相兼拓務相として日米交渉にあたるが失敗。20年鈴木内閣の軍需相兼運輸通信相となる。戦後は日本ウジミナス会長をつとめた。昭和36年11月21日死去。76歳。和歌山県出身。海軍大学校卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
豊田 貞次郎 (とよだ ていじろう)
生年月日:1885年8月7日
大正時代;昭和時代の海軍軍人;政治家。海軍大将;貴族院議員
1961年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報