日米交渉(読み)にちべいこうしょう

改訂新版 世界大百科事典 「日米交渉」の意味・わかりやすい解説

日米交渉 (にちべいこうしょう)

日本とアメリカの政治交渉のうち,歴史的にはとくに太平洋戦争開戦前における国交調整交渉をいう。日中戦争による日本の中国侵略のため,中国を支援するアメリカと日本との関係は険悪となり,1940年1月26日には日米通商航海条約が失効し,日米関係は無条約時代に突入した。同年9月,第2次近衛文麿内閣が北部仏印(現,ベトナム北部)進駐(仏印進駐)と日独伊三国同盟締結を断行すると,アメリカも戦略物資の対日輸出制限拡大などの対抗措置をとった。そこで近衛内閣は,野村吉三郎大使をアメリカに派遣し,日独伊三国同盟の反米的性格を弱めた内容の〈日米諒解案〉をもとに,41年4月16日から日米交渉がはじめられた。当時日ソ中立条約調印のため訪ソ中であった松岡洋右外相は,帰国後〈日米諒解案〉の内容を知って激怒し,日本は松岡の主張どおり三国同盟堅持の強硬方針で交渉にのぞんだ。C.ハル国務長官との交渉では,日独伊三国同盟,日本軍の中国・仏印駐兵,日米通商問題などが中心議題となったが,アメリカ側もきびしい対日態度を変えず,交渉は難航した。そのため近衛首相は,松岡外相の罷免を決意して内閣総辞職を決行,7月18日第3次近衛内閣が成立した(外相豊田貞次郎)。しかしその間6月22日の独ソ戦争勃発を契機に米英ソ3国による反枢軸連合が形成されはじめた。ついで7月28日陸軍が南部仏印進駐を強行すると,アメリカは在米日本資産の凍結(7月25日)と石油の対日輸出全面禁止(8月1日)の対抗措置をとった。そのため軍部のなかに開戦を唱える強硬論が高まり,9月6日の御前会議対米英開戦の方針が決定された。日米交渉は行き詰まり,近衛内閣は総辞職し,10月18日東条英機内閣が成立した(外相東郷茂徳)。東条内閣は,11月5日の御前会議で対米交渉要領甲乙両案を決定,来栖三郎特使としてアメリカに派遣した。野村と来栖は甲案ついで乙案を提示して交渉に努めたが,ハル国務長官は11月26日,いわゆるハル・ノートを提示した。これを最後通牒と受け取った日本は,12月1日の御前会議で開戦を最終決定し,12月8日の太平洋戦争突入によって日米交渉は失敗におわった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日米交渉」の意味・わかりやすい解説

日米交渉
にちべいこうしょう

対米英戦争の回避または延引を目的とした、真珠湾攻撃前の約1年間、日米両国で行われた非公式外交工作および開戦外交交渉。日中戦争の拡大とともに日米関係は険悪化し、アメリカは1939年(昭和14)日米通商航海条約廃棄通告をはじめ、1940年日本の北部仏印進駐(ふついんしんちゅう)や日独伊三国同盟締結に対する経済制裁、1941年対日資産凍結や石油の対日輸出全面禁止の措置(対日禁輸問題)に出た。この情勢を背景に1941年第2次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は日米交渉を開始するが、交渉前史は1940年夏、アメリカ・カトリック外国宣教会のドラウトらによる対日和平工作に始まる。同年11月に来日したドラウトは、井川忠雄(産業組合中央金庫理事)を介して日本政府や軍部に、また翌1941年1月帰米後にはウォーカー郵政長官を介してホワイトハウスに通ずる非公式の外交チャンネルの成立を図る。同年4月、ドラウト・井川らによって、三国同盟の反米的性格を薄めた日米諒解案(にちべいりょうかいあん)が作成され、以後この案を基に、野村吉三郎(きちさぶろう)駐米大使とハル国務長官を軸に政府間レベルで外交交渉が行われる。しかし、日本側では松岡洋右(ようすけ)外相が諒解案に反対し、アメリカも独ソ開戦後のヨーロッパ情勢の変化と日本の南部仏印進駐に対して態度を硬化させ、交渉は頓挫する。その後局面打開のために、近衛はルーズベルトとの日米巨頭会談を提案するが実現せず、日本は和戦両様の構えで帝国国策遂行要領を決め、11月6日に交渉最終案「甲乙両案」を決定した。この提案は、米国務長官ハルが提示した26日付のハル・ノートによって拒否される。開戦外交交渉の事実上の打切りとなったこのハル・ノートの提示を、最後通牒と受け止めた日本側は、12月1日の御前会議で対米英蘭開戦を最終的に決断し、8日開戦に至る。のちに交渉の最終通告をめぐり開戦通告遅延問題を惹起する。

[塩崎弘明]

『外務省編・刊『日本外交文書・日米交渉――1941』上下(1990)』『細谷千博・佐藤元秀編『日米交渉関係調書集成』(2009・現代史料出版)』『伊藤隆・塩崎弘明編『井川忠雄日米交渉史料』(1982・山川出版社)』『塩崎弘明著『日英米戦争の岐路』(1984・山川出版社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日米交渉」の意味・わかりやすい解説

日米交渉
にちべいこうしょう

日米戦争直前の 1941年2月から 12月8日の真珠湾攻撃までの期間に,日米国交調整を目的として行われた外交交渉。日米関係の悪化を防ぐため,41年2月第2次近衛内閣は野村吉三郎を駐米大使に任命し,日米交渉を開始した。4月 C.ハル国務長官と野村大使の間で,民間外交の結晶としての「日米了解案」が取上げられたが,松岡洋右外相は異議を唱え,強硬論に固執し,また三国同盟問題,中国撤兵問題などをめぐる双方の見解の差は大きく,交渉は難航した。6月独ソ開戦ののち日米交渉の妥結が急務となり,内閣はいったん総辞職し,日米交渉打切りを唱える松岡外相に代えて豊田貞次郎海軍大将を外相とする第3次近衛内閣が成立した。しかし7月下旬統帥部の主張によりインドシナ進駐が行われ,アメリカ,イギリスはこれに対抗して日本資産の凍結,石油の全面的禁輸を断行した (→南部仏印進駐 ) 。8月近衛首相は F.ルーズベルト大統領との直接会談を求めたが実現せず,10月上旬にはインドシナ,中国からの撤兵受諾により交渉成立の見込みありとの主張が生れたが,東条英機陸相は反対を続けた。このため近衛内閣は総辞職し,東条内閣がこれに代った。東条内閣は 11月5日の御前会議で最後の対米交渉を甲,乙両案で進めることにし,11月中に交渉不成立の場合には 12月初めに武力を発動する方針を決定した。 11月 26日アメリカは日本軍の中国,全仏印からの全面撤兵,満州国否認などを要求した「ハル・ノート」を手交し,日本は 12月1日の御前会議で対米,英,オランダ開戦を決定し,日米交渉は決裂するにいたった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日米交渉」の解説

日米交渉
にちべいこうしょう

太平洋戦争勃発前の約1年間,日米両国が戦争回避の目的で行った外交交渉。1941年(昭和16)4月野村吉三郎駐米大使とハル国務長官との交渉が始まり,日独伊三国同盟,日本軍の中国および仏印駐兵,日米通商問題などが中心議題となった。双方の主張はかけ離れ交渉は難航した。7月日本が南部仏印に進駐すると,アメリカは在米日本資産の凍結と石油の対日輸出全面禁止に踏み切った。東条内閣は対米交渉要領甲乙両案を決定,11月来栖(くるす)三郎を特使として派遣したが,アメリカが提示したいわゆるハル・ノートを最後通牒とうけとった日本は,御前会議で開戦の最終決定を行う。12月8日太平洋戦争に突入,日米交渉は失敗に終わった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日米交渉」の解説

日米交渉
にちべいこうしょう

1941年,太平洋戦争直前の日本とアメリカの国交調整交渉
日本軍の大陸撤退を条件に満州国の承認,日米通商関係の正常化などの交渉が駐米大使野村吉三郎とハル国務長官の間で始められた。しかし訪独の帰途日ソ中立条約を締結した松岡洋右 (ようすけ) 外相は対中国政策の全面承認を主張した。そのため第2次近衛文麿内閣は総辞職し松岡を更迭したが,日本軍の南部仏印進駐はアメリカ側を硬化させた。つぎの東条英機内閣は来栖 (くるす) 三郎を野村の補佐に送って交渉を再開したが,11月26日,ハル‐ノートが手渡され,交渉は決裂し開戦となった。

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