財部城跡(読み)たからべじようあと

日本歴史地名大系 「財部城跡」の解説

財部城跡
たからべじようあと

[現在地名]財部町北俣・南俣

北俣きたまた城・龍虎りゆうこ城ともいう。南を杢比野むくひの川と横市よこいち川、北をうしろ川が流れ、標高二一一メートルを最高地点とする西から東へ延びるシラス台地の先端とその周囲をおもな城域とする。最初の城主は鎌倉期の財部六郎正信とも(三国名勝図会)、または財部正盛ともいうが(「財部家系図」都城財部文書)、確認できない。南朝方の肝付兼重勢の大窪三郎が下財部「新宮城」に籠城したため、建武三年(一三三六)一二月六日島津貞久と連合した畠山直顕勢の建部清種らが押寄せ、「向城」を築いて合戦している。このため兼重勢は新宮しんぐう城を放棄、三俣みまた(現宮崎県北諸県郡など)へ逃亡した。暦応二年(一三三九)四月以降には再度当地で兼重が盛返し、猪俣新左衛門尉らが「上財部城」に立籠ったので、建部清種らが向城を築いて合戦した(同年八月三〇日「建部清種軍忠状」池端文書など)。これらの城のうち上財部城が当城の前身と考えられる。九州探題今川了俊の子で代官の満範が、相良氏・伊東氏を動員し、南朝方島津氏久に通じていた北郷義久を日向国庄内都城に包囲したので、天授三年(一三七七)氏久は義久救援のため志布志しぶし(現志布志町)からてんヶ峰(現宮崎県都城市)に出て、三月一日には、満範勢を破ったが、この際財部氏は数少ない氏久勢の一人であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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