和歌山県南東部の市。2005年10月旧新宮市と熊野川(くまのがわ)町が合体して成立した。人口3万1498(2010)。
新宮市西部の旧町。旧東牟婁(ひがしむろ)郡所属。人口2043(2000)。十津川と北山川が合流して熊野川となる西岸に位置し,東は熊野川を境に三重県,北は奈良県に接する。紀伊山地に属する山地が広く,河川沿いにわずかな低地があって小集落が点在する。奈良・三重県境に飛地がある。中心は熊野川と支流赤木川の合流点にある日足(ひたり)。熊野川はかつて本宮,十津川奥地から新宮に至る物資運搬の唯一の交通機関で,いかだ流しで有名。十津川沿いの道(現,国道168号線)は熊野参道であった。町域の大部分が山林で,温暖多雨地帯にあって良質の杉,ヒノキを産出する。宮井付近ではコンニャクイモを産する。玉置口地区を流れる北山川の峡谷は三重県から続く瀞(どろ)峡(瀞八丁)の下瀞に当たり,吉野熊野国立公園に属し,天然記念物・特別名勝に指定されている。
執筆者:上田 雅子
新宮市東部の旧市。1933年市制。人口3万3133(2000)。熊野川河口南岸に位置し,熊野灘に臨む。市街北部に熊野三山の一つである熊野速玉(はやたま)大社がまつられ,本宮に対して新宮と呼ばれた。市名はこれに由来する。熊野川流域の木材の集散地として発展し,明治末期までに大規模な貯木場,製材工場がつくられた。現在は木材生産が減少して,外材輸入に頼っており,製紙業,製材業は縮小傾向にある。1958年紀勢本線が全線開通し,名古屋,大阪の大都市圏と結ばれるとともに,瀞峡,熊野本宮大社など熊野観光の基地としてにぎわう。市内には天然記念物の新宮藺沢(いのさわ)浮島植物群落や神武天皇東征にちなむ神倉神社の天磐盾(あめのいわたて),秦の始皇帝の命を受けて渡来したといわれる徐福の墓がある。
執筆者:水田 義一
古くから熊野水軍の根拠地の一つとして知られる。熊野速玉大社の門前に営まれた先達や御師の宿坊を中心にしだいに町場化し,木材の集散地あるいは伊勢と熊野をつなぐ水陸交通の要所として発展した。熊野三山を現地で支配した別当家の一つも新宮におり,田辺の別当家としばしば勢力を競った。源平合戦に東海で挙兵した源行家も新宮十郎と称するように,平治の乱後,この地に逃れて成長したといわれる。戦国時代には堀内氏が台頭し,紀州に進攻した織田信長,豊臣秀吉に忠誠を誓って熊野地方を支配したが,関ヶ原の戦で没落した。
執筆者:小山 靖憲 1600年(慶長5)浅野幸長が紀州に入国すると,次男忠吉が2万8000石を与えられ新宮に入った。19年(元和5)徳川頼宣が入国,付家老水野氏が3万5000石を支配して丹鶴(たんかく)城に入り,城下町に準ずる政治・経済・文化の中心地として繁栄した。木材,木炭を江戸に送る廻船業や三輪崎の捕鯨も盛んであった。特に,これらを背景に発展した造船業は注目される。新宮鍛冶仲間はすでに1668年(寛文8)から株仲間の特権が与えられていたが,幕末には異国船の渡来,開港貿易という新しい時代に対応して〈一之丹鶴丸〉〈二之丹鶴丸〉という軍艦を造り,さらには他藩の船を修理し,大砲も生産するなど近代工業の芽生えがみられた。1868年(明治1)紀州藩新宮領は新宮藩となった。
執筆者:安藤 精一
福岡県北西部,糟屋(かすや)郡の町。玄界灘に浮かぶ相ノ島を含む。人口2万4679(2010)。町名は住吉神社(新宮)に由来する。内陸部には低山地や丘陵が広く分布し,玄界灘に臨む海岸部には砂丘と湊川の沖積低地がある。福岡市に隣接し,JR鹿児島本線,国道3号線,西鉄宮地岳線(2007年西鉄新宮~津屋崎間が廃止となり,西鉄新宮~貝塚間は西鉄貝塚線と改称)が町域内を並走するため,福岡市への通勤者が多く,丘陵地では宅地開発がめざましい。また国道沿いに工場進出が盛んで,工業が主産業となっている。農業は米作のほか野菜,果樹の栽培が行われ,相ノ島,新宮,湊では漁業も行われる。南部の立花山付近には,特別天然記念物のクスノキ原始林,大友氏の北九州支配の拠点となった立花城跡,梅岳寺などがある。
執筆者:松橋 公治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
和歌山県南東部、熊野灘(なだ)に面する市。1933年(昭和8)新宮町と三輪崎(みわさき)町が合併して市制施行。1956年(昭和31)高田村を編入。2005年(平成17)熊野川町を合併。JR紀勢本線(きのくに線)と国道42号、168号、169号、311号が通じる。熊野三山の一つで新宮とよばれる熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)が鎮座し、その門前町として発展したことが地名の由来である。
市域は熊野川下流右岸から熊野灘沿岸にわたっていたが、熊野川町を合併したため、熊野川中流を含む北側に大きく広がり、奈良・三重県に囲まれた飛び地を有することになった。中心市街地は南東流してきた熊野川が千穂ヶ峯(ちほがみね)(253メートル)に当たって蛇行し、東流して熊野灘に注ぐ河口三角州上にある。千穂ヶ峯北東麓(ろく)に速玉大社があり、南東麓の速玉神の旧座所とされる神倉山(かんのくらやま)と相対する。このため新宮は熊野神邑(しんゆう)の地とされ、秦(しん)の始皇帝の臣徐福(じょふく)の渡来伝説による徐福の墓もある。中世には熊野別当の居所であり、門前町として発展し、近世には紀伊徳川氏の家老水野氏3万5000石の城下であった。水野氏は河口に近い残丘上に築いた丹鶴城(たんかくじょう)に拠(よ)って奥熊野を支配した。河口の熊野地(くまのじ)には廻船(かいせん)が寄港し、廻船の乗子が多く居住したという。熊野川上流の木材が流送される貯木場もあり、河原には筏(いかだ)師相手の河原町があった。熊野川河口近くにはいまも製材所がある。しかし河口は砂州により埋まりやすいため、市域南東部の三輪崎に新たに新宮港が整備された。市街中心部にある浮島の森は暖地・寒地性の植物が茂り、新宮藺沢(いのさわ/いのす)浮島植物群落として国指定天然記念物となっている。速玉大社の速玉祭と摂社神倉神社の熊野御灯(おとう)祭は国指定重要無形民俗文化財。熊野川流域は吉野熊野国立公園域で、瀞峡(どろきょう)があり、南紀観光の一中心である。2004年には熊野古道や熊野速玉大社が「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」として世界遺産(文化遺産)に登録された。面積255.23平方キロメートル(境界一部未定)、人口2万7171(2020)。
[小池洋一]
『『新宮市史』(1972・新宮市)』▽『『新宮市史』全3巻(1983~1986・新宮市)』
愛媛県東部、宇摩郡(うまぐん)にあった旧村名(新宮村(むら))。現在は四国中央市の東南部を占める一地域。1954年(昭和29)新立(しんりつ)村と上山(かみやま)村が合併して新宮村が成立。2004年(平成16)川之江(かわのえ)市、伊予三島(いよみしま)市、土居(どい)町と合併、四国中央市となる(なお、この合併により宇摩郡は消滅)。旧新宮村は、吉野川の支流銅山(どうざん)川の中流域にあり、南部は高知県に、東部は徳島県に接する。銅山川に沿って国道319号が東西に走り、高知自動車道の新宮インターチェンジがある。名称は、平安時代に紀伊国から勧請(かんじょう)したという熊野速玉(はやたま)大社(新宮)にちなむ。茶、タバコ、シイタケの生産が主の純山村で、とくに茶は「新宮茶」として知られる。かつては養蚕が盛んであった。近世には土佐藩主が参勤交代で川之江に出る土佐街道が通じ、馬立(うまたて)には本陣があった。新宮ダム(1977年完成)は、西日本有数の紙・パルプ生産を誇る旧川之江市や旧伊予三島市などに工業用水を供給してきた。大西神社の鐘踊りは県指定無形民俗文化財。
[横山昭市]
福岡県北西部、糟屋郡(かすやぐん)にある町。1954年(昭和29)町制施行。1955年立花(たちばな)村と合併。町名は、磯崎(いそざき)神社を奉遷して、新宮浦と名づけたことによる。南端の立花山(367メートル)をはじめ低い山地、丘陵が広く分布する一方、玄界灘(げんかいなだ)沿岸に砂丘が発達し、その内側に湊(みなと)川の小沖積低地が展開、北西沖合いに相島(あいのしま)がある。JR鹿児島本線、西日本鉄道貝塚線、国道3号が走る。主産業は稲作、ミカン栽培を中心とした農業と近海漁業であるが、福岡市に隣接しているため、工場の進出や宅地化が進んだ。特別天然記念物であるクスノキ原始林の茂る立花山や、海水浴場として知られる新宮海岸、沖合いの相島などは玄海(げんかい)国定公園に属する。また、国指定重要文化財の横大路家住宅(よこおおじけじゅうたく)(千年家)や、最澄(さいちょう)ゆかりの独鈷(とっこ)寺などがある。面積18.93平方キロメートル、人口3万2927(2020)。
[石黒正紀]
『『新宮町誌』(1997・新宮町)』
兵庫県南西部、揖保郡(いぼ)にあった旧町名(新宮町(ちょう))。現在はたつの市の北半を占める一地区。1934年(昭和9)町制施行。1951年(昭和26)東栗栖(ひがしくりす)、西栗栖、香島(かしま)、越部(こしべ)の4村と合併。2005年(平成17)新宮町は龍野(たつの)市、揖保川(いぼがわ)町、御津(みつ)町と合併してたつの市となる。播但山地(ばんたんさんち)の南端に近く、東を揖保川が南流、これに合流する栗栖川沿いにJR姫新線(きしんせん)と国道179号が走る。また、南西部に播磨自動車道(はりまじどうしゃどう)が通じ、播磨新宮インターチェンジがある。越部荘(しょう)は歌人藤原俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)の所領地で、その背後の城山(きのやま)城は中世赤松氏の居城で播磨支配の拠点であった。近世には旗本の陣屋があり、町並みにそのおもかげを残している。農林業が中心で、シイタケ、ブドウ、クリの栽培が盛ん。手延べそうめんは全国に出荷される。天満神社本殿は国指定重要文化財。吉島(よしま)古墳、新宮宮内(みやうち)遺跡は国指定史跡。揖保川左岸の觜崎(はしさき)の屏風(びょうぶ)岩は国指定天然記念物。
[大槻 守]
『『播磨新宮町史』全7巻(1960~1969・新宮町)』
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…和歌山県熊野川河口の新宮を輸送基地とする杉材の称であるが,主産地は上流の北山郷(現,奈良県吉野郡上北山村,下北山村)である。杉,ヒノキ天然林の蓄積豊かな北山地方の林業開発は,同地方が江戸幕府領となった近世初期に始まるが,その当時から幕府は北山郷14ヵ村に〈木年貢〉制を敷き,本年貢代りに収納する杉,ヒノキ材(長さ3間半の1尺2寸角木)のほか,材木前渡金に当たる〈拝借銀〉を融資し,併せて年800本を超える良材を上納させた。…
…和歌山県熊野地方にある本宮,新宮,那智の3ヵ所の神社の総称。本宮(熊野坐(くまのにます)神社)は現在熊野本宮大社と称し,東牟婁(ひがしむろ)郡本宮町に,新宮(熊野早玉神社)は現在熊野速玉大社と称し,新宮市に,那智は現在熊野那智大社と称し,東牟婁郡那智勝浦町に鎮座する。…
…
[沿革]
県域はかつての紀伊国の大部分にあたる。江戸時代は伊勢・大和両国の一部とともに三家の一つ紀州藩(和歌山藩)の支配下にあり,田辺,新宮の支城に安藤・水野両家老が配されていたほか,伊都・那賀両郡には高野山領があった。1868年(明治1)田辺・新宮両藩が立藩し,高野山領は69年堺県,70年五条県の管轄下に置かれた。…
※「新宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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