貴志庄(読み)きしのしよう

日本歴史地名大系 「貴志庄」の解説

貴志庄
きしのしよう

貴志川流域、吉仲よしなか庄南側の東西両岸にあった荘園。徳治二年(一三〇七)八月日の阿河庄地頭披陳状(又続宝簡集)に付された頼聖具書案の「縁起中心不知行所々事」のなかに「貴志庄」がみえ、「西薗寺領 地頭小鹿入道阿念云々、一方地頭伊東ト号、不名」と記す。ただしこの記載に関しては他に史料はなさそうである。

荘内国主くにし村の薬師寺文書(「続風土記」所収)には、嘉元元年(一三〇三)六月付で貴志庄内国主寺に対する万雑公事を禁じた沙弥阿念置文、同年七月一六日付の同趣旨の藤原祐方置文、応長元年(一三一一)五月一六日付で国主寺が粉河こかわ(現粉河町)修造の棟別銭沙汰についての阿闍梨栄実書状、正平四年(一三四九)一一月二二日付の国主寺領貴志庄内灯油田安堵状などがあり、正平の文書には公文藤原叔忠・下司藤原正平・新田公文藤原公兼・新田下司藤原友平・総追捕使源宗実の署判がある。


貴志庄
きしのしよう

武庫むこ川中流域右岸丘陵、現貴志一帯に比定される庄園。「後二条師通記」寛治六年(一〇九二)一二月一一日条に「貴志庄」とみえ、前太政大臣(藤原信長)が当庄に関する符案が不明のままなのに対し、摂津守源重資を非難している。同書同年一〇月二五日条裏書にみえる「志賀庄」は当庄のことと思われる。治承四年(一一八〇)五月、弟以仁王の挙兵が失敗したため、京都の宿所を脱出した前斎宮(亮子内親王、殷富門院)が、一一月八日姫宮を伴い摂津国貴志庄に下向しており(明月記)、当時貴志庄は前斎宮が領していた可能性がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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