賀陽親王(読み)かやしんのう

改訂新版 世界大百科事典 「賀陽親王」の意味・わかりやすい解説

賀陽親王 (かやしんのう)
生没年:794-871(延暦13-貞観13)

平安初期の官人。桓武天皇の第7皇子,母は多治比真宗葛原(かつらはら)親王の同母弟。刑部卿治部卿中務卿大宰帥,弾正尹などを歴任し,二品となった。とくに治部卿の職にあることが長く,860年(貞観2)東大寺大仏修造にかかわり,翌年の大仏供養を監事した。また意匠巧妙で丈四の童子のからくりをつくって人々の好奇心をかりたてたという。その家は山城国紀伊郡石原郷にあり,その子はのち平氏姓となった。
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朝日日本歴史人物事典 「賀陽親王」の解説

賀陽親王

没年:貞観13.10.8(871.11.23)
生年延暦13(794)
平安前期の皇族。桓武天皇と多治比長野の娘真宗の子。弘仁13(822)年刑部卿となり,治部卿,中務卿などを歴任。斉衡2(855)年に大破した東大寺大仏の修造に当たり,貞観3(861)年3月修理落成供養会を監修している。『今昔物語』には,親王が建立した京極寺(東京極大路東,三条北)の傍の田に両手で器をもつ人形を造り,水で器が一杯になると顔にそそぐしかけを細工したところ,見る人が面白がって水を入れたので,旱魃時でもこの田だけは涸れたことがない,そこで人々は「極めたる物の上手,風流の至るところ」と語り伝えたとある。中御門南,堀川東(京都市中京区)にあった邸宅はのち藤原頼通が伝領

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「賀陽親王」の解説

賀陽親王 かやしんのう

794-871 平安時代前期,桓武(かんむ)天皇の第7皇子。
延暦(えんりゃく)13年生まれ。母は多治比真宗。葛原(かずらはら)親王の同母弟。刑部卿(ぎょうぶきょう),治部(じぶ)卿,中務(なかつかさ)卿,大宰帥(だざいのそち),弾正尹(だんじょうのいん)などを歴任。斉衡(さいこう)2年二品にすすむ。貞観(じょうがん)2年東大寺大仏の修造にかかわり,翌年大仏修理落成供養会(くようえ)を監修した。貞観13年10月8日死去。78歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の賀陽親王の言及

【高陽院】より

…賀陽院とも書く。桓武天皇皇子の賀陽親王にはじまる邸宅。平安京西洞院大路の西,大炊御門大路の北。…

※「賀陽親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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