赤司村
あかじむら
[現在地名]北野町赤司
筑後川の支流陣屋川下流域に位置し、池田川を挟んで南の稲数村に接する。村の北方今村(現大刀洗町)境に飛地牛ノ川がある。地内の広域にわたって北二ノ江・南二ノ江・十一・西八ノ江・八ノ江・十ノ江・四ノ江・北七ノ江・南七ノ江などがあり、条里制の遺称地名と推定される。元慶七年(八八三)筑後国司都朝臣御酉が一〇〇余人の盗賊に殺害され、推問筑後国殺害使として下向した藤原良積が事件を処理したが(「三代実録」同年七月一九日条・同一〇月九日条)、集落北西にある良積石は御酉の墓ともいう(筑後将士軍談)。しかし石碑に「貞和五年法界衆生」などの銘もあり、南北朝期の供養塔とも考えられる。地名は鎌倉期よりみえ、南北朝期には赤司城が築かれていた。建仁元年(一二〇一)河北郡内「赤自益富」の三〇町などに高良社(現久留米市)上宮の御供屋一宇の造営役が賦課されている(高良宮造営田数注文)。文永一〇年(一二七三)六月一〇日の沙弥蓮種所領譲状(草野文書/鎌倉遺文一五)によれば、「竹野御庄河北郷内赤目別符」などが草野永種から養子の永平に譲られている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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