他人の財物を略取する者をいう。どろぼう,盗人とも呼ばれるが,それらより凶悪な者を指すことが多い。盗んだ物を貧しい者に分け与える義賊とは異なり,恐れられることが多いが,稀代の大盗賊のなかには,民衆からひそかな喝采(かつさい)をおくられた者も少なくなかったことが知られている。
ローマ最古の成文法である十二表法の第8表には,夜間盗みを行った者を現場で捕らえたとき,被害者は殺してもさしつかえないという規定があり,盗みに対する制裁措置が過酷であった。イエス・キリストとともに処刑された2人の男が盗賊であったことはよく知られた事実だが,中世社会に入ると犯罪の中で最も恐れられたのが,血だらけの殺人ではなく,他人の物を盗む行為であったことに注意する必要がある。なぜなら,相手のすきをねらってこっそり財産権を侵害するから,著しく社会正義に反するとみなされたからである。アングロ・サクソン法では,盗みの初犯は片方の耳そぎ,二犯はもう一方の耳そぎ,三犯になると〈切り落とす耳がないので〉絞首刑であったし,中世ドイツの法書《ザクセンシュピーゲル》でも3シリング(牧羊犬,イノシシ,1歳豚各1頭に相当)以上の窃盗は絞首刑であった。
近世社会になると,〈暴力犯から窃盗犯へ〉というシェーマが示すとおり,犯罪量の分布に顕著な違いがみられるようになる。イタリア戦争,宗教戦争,三十年戦争などの戦乱や経済変動のあおりをくって,社会の周縁部に没落していった乞食,浮浪者,無宿者による窃盗の事例が増大してくるのである。17世紀フランスの版画家ジャック・カロが描いた多くの作品に盗賊の群れのモティーフが使われたこともその証拠といえる。18世紀に入ると,大都市では押込み強盗,家僕の窃盗,すりなどの盗みの行為が圧倒的に多くなり,例えば革命前夜のパリでは犯罪件数の90%に近い割合を示して,現代社会にきわめて類似した犯罪構造をはらんでいた。こうしたなかで,18世紀のイギリス,フランス,ドイツではディック・ターピンDick Turpin(本名Richard Turpin,1706-39),カルトゥーシュCartouche(本名ドミニクLouis Dominique,1693-1721),シンダーハネスSchinderhannes(本名ビュックラーJohann Bückler,1783-1803)らの強盗が理想化されて,中世イングランドの義賊ロビン・フッドにも似たイメージが民衆世界にわきあがるが,彼らは本質的には盗賊のやからにすぎなかった。現代はまことに窃盗の時代にあたるが,フランス現行刑法典第382条には〈盗罪を犯すに当たり暴行を加え,その結果,人を傷害し,または打撲傷を負わせたときは,この状況は無期懲役の言渡しをするに足る〉の条文があり,暴力を伴った盗みの行為に対する厳しい制裁は,古代ローマ以来一貫している。
執筆者:志垣 嘉夫
《隋書》倭国伝に,倭国では強盗は死刑,窃盗は贓物(ぞうぶつ)(盗品)に応じ返還せしめているとあり,6,7世紀ころの科刑のあり方が知られる。しかし都市は未発達であり,盗賊はさほど大きな問題となっていなかったと考えられる。律令時代に入ると,官司制の整備と関連して官人による官有物の盗奪が頻出し,また共同体秩序の解体に伴い律令的負担の重圧や私出挙(しすいこ),自然災害などにより窮迫した農民が流民となり,盗賊化することが多かった。693年(持統7)に内蔵允(くらのじよう)大伴男人らが官物を盗んだのは前者の例であり,水旱異常による農業不振や飢饉のときに横行する盗賊は後者の例である。平安時代に入ると,農業から遊離した人たちが多数平安京内に居住するようになり,それらの中に盗賊となる者がいた。《今昔物語集》をはじめとする説話集の中に,そのような生産から遊離した都市型の盗賊の例が少なからず活写されている。
執筆者:森田 悌 《今昔物語集》に描かれたような盗賊の横行は,鎌倉時代に入って治安が回復するに及び若干下火となったが,幕府政治の弛緩する鎌倉後半期から戦国時代にかけて,再び盗賊の跳梁を見た。1334年(建武1)の〈二条河原落書〉も,〈此頃都ニハヤル物〉の一つとして強盗を挙げている。悪党,海賊(衆),野武士などの武装集団による盗賊行為もしばしば見られた。近世初期の有名な盗賊石川五右衛門は文禄(1592-96)のころ,三条河原で釜煎の刑に処せられたと記録されているが,その辞世の歌と称するものは後人の仮託である。
江戸時代にも,とくに幕藩体制の諸矛盾が深刻となる後半期には,農村から大都市へ流出する無宿の増加と並行して,盗犯の数が増大した。強盗・窃盗犯人の多数を占めるのは無宿であった。とくに幕府諸藩で追放刑に処せられた者の多くは江戸に集まり,さらに盗犯を重ねることとなった。そのほか,必ずしも無宿とは限らないが,各地から江戸などに流出し,人宿(ひとやど)(奉公人周旋業者)を請人として奉公人や日雇いとなる人宿寄子(よりこ)も,盗犯,なかでも主として軽微な窃盗を繰り返すことが少なくなかった。また関八州などでは,ばくち常習の無宿たる博徒の集団が強盗に押し入る例も見られた。江戸時代には盗みとならんで放火も多発したが,放火が盗みを目的として行われる場合もしばしば見られた。なお武士による盗犯もなかったわけではない。例えば尾張藩の判例は,武家長屋に忍び入って刀,衣類を盗んだ藩士,同役などの鼻紙袋から金子(きんす)を盗んだ藩士,寺の賽銭(さいせん)を盗もうとした藩士など,武士による盗犯の事例がまれではなかったことを伝えている。著名な盗賊鼠小僧次郎吉は,諸大名を中心に延べ100余軒の武家屋敷から計3000余両を盗み,1832年(天保3)に獄門に処せられたが,義賊であったという証拠はない。歌舞伎の白浪物は盗賊を美化して描いているが,なかでも《白浪五人男》の日本駄右衛門は,東海道を荒らし回った大盗賊団の首領で,1747年(延享4)に獄門となった浜島庄兵衛(異名,日本左衛門)をモデルとしている。大凧に乗って名古屋城の金鯱(きんしやち)を盗んだという伝説がつくられた柿木金助は,尾張国中島郡柿木島村の生れで,多数の手下とともに豪農豪商の家へ盗みに押し入ることを重ねたが,1763年(宝暦13)名古屋町中引廻しのうえ獄門となった。
→盗み
執筆者:林 由紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人の金銭、財物等を奪い取る賊。盗人(ぬすっと)、泥棒と同一であるが、その仕事を常習し、暴力や脅迫の手段をしばしばとる者をいうことが多い。海をその根拠地とする者を海賊、山の者を山賊、野の者を野盗などとも分ける。往時にあっては洋の東西を問わず、盗賊行為が生存競争の必要強行手段であり、それが倫理上の絶対悪でなかったことを認識しないと、歴史上の盗賊は把握しにくい。権力者の成立には、往々にして盗賊行為の要素が強かったし、またそれに対する反権力の闘争にも同じ行為があり、そのはざまにあって生存を脅かされた民衆の生活にもこの行為があるというように、歴史は盗賊行為に濃く彩られている。
[梶 龍雄]
エジプト王朝時代の墳墓であったマスタバ、ピラミッドなどの建立とともに、その財宝が盗賊たちに荒らされ、たまりかねた王が人目につかぬ王家の谷に場所を移したように、盗賊の歴史は古く紀元前にさかのぼる。紀元後5世紀ごろを中心に300年余り栄えた小アジアのイサウラ王国は、盗賊たちのつくった国家といわれ、宮廷から貨幣までをもったといわれている。15~17世紀の商業経済の活発化とともに、騎士の失業が多くなると、彼らは野盗化して都市や農村を荒らし回った。一方、同時におこった海賊横行の世情のなかで、その行為は妥当のこととされ、オランダ、イギリスなどは国勢の争いとして、それに特免状を与えたりした。
だが一方、実存の地方貴族をモデルにしたといわれるイギリスのロビン・フッドRobin Hoodのような存在もあった。民衆の抑圧意識の解放、巧みな知恵の勝利の快感の実現として、こういった盗賊は義賊といわれ、洋の東西を問わず伝説的な英雄となっている。またフランスのフランソア・ビドックFrancois Vidocq(1775―1857)のように、当局を手こずらせた盗賊兼詐欺師でありながら、その暗黒街の豊富な奸知(かんち)で、ナポレオン治世下の警察の長となった、盗賊と権力の重なる部分で生きた存在もある。盗賊行為が人間の平常生活のなかから分化して絶対悪となり、法や道徳の厳しい追及を受けるようになったのは、近世も新しくなってからで、たとえばイギリスの作家ディケンズの『オリバー・トゥイスト』(1838)などには、まだ貧民の日常が盗賊行為に濃く彩られていることが如実に描かれている。
[梶 龍雄]
中国においても、古代から盗賊の存在は平常的で、易学のうえなどでは、彼らの跋扈(ばっこ)は自然現象と同じ扱いをしていた。戦乱、失政、自然災害などを原因とする困窮からの集団的盗賊行為色の強い民衆の蜂起(ほうき)は、2世紀末ごろには妖賊(ようぞく)といわれ、これはのちに、白波(はくは)谷に立てこもって活動した黄巾(こうきん)賊となった。王、豪族、英雄なども、部分的に盗賊と重なって区別がつかないことも多く、『三国志』『水滸伝(すいこでん)』は、こういったさまざまの盗賊で彩られている。
[梶 龍雄]
日本でも昔は盗賊の横行は平常的なもので、寂しい山野などの1人歩きは危険なものであった。平安時代中期の国情疲弊のころには、都にまで盗賊が横行し、そのなかでも名高いのは源頼光(よりみつ)に捕縛されたという袴垂保輔(はかまだれやすすけ)である。この頼光が、丹波(たんば)の大江山に住むという酒呑童子(しゅてんどうじ)という山賊を退治したという伝説もある。源義経(よしつね)に屈伏したという有名な弁慶も、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)という権力を背景にした盗賊的行為の僧である。石川五右衛門とともに盗賊の双璧(そうへき)をなすといわれる12世紀の盗賊熊坂長範(くまさかちょうはん)も、この義経に討たれたといわれる。
盗賊の狡知(こうち)のなかの優れたものは、現在の忍びの術といわれるものになり、野盗の透波(すっぱ)に受け継がれ、戦国時代にはこの集団の首領風魔(ふうま)小太郎は小田原の北条家と結び付いてゲリラ活動をした。この北条家に仕えた透破出身と思われる神崎甚内、庄司甚内、鳶沢甚内の三盗賊は三甚内といわれている。石川五右衛門も伊賀で忍びの術を学んだといわれ、その神出鬼没ぶりと悪の徹底ぶりが一般民衆の人気をよんで、江戸時代には白井権八(ごんぱち)、日本左衛門、稲葉小僧新助などの盗賊とともに、芝居や講談の主人公となった。また民衆の反権力の意識として、大名の屋敷ばかりをねらい、盗んだ金は貧民に施すという義賊、鼠小僧(ねずみこぞう)次郎吉が当時の人気をよんだが、貧民に金を与えたというのは芝居や講談の脚色で、実際にはその事実はないようである。
[梶 龍雄]
盗賊という存在は刺激的な材料だけに、文芸ではさまざまの形で数多く扱われている。歌舞伎(かぶき)、講談、実録では白波(しらなみ)ものとして、数多くの出し物が人気をよんだ。この名は、中国の黄巾賊が白波谷に立てこもったことからつけられたといわれる。芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)は『羅生門(らしょうもん)』『偸盗(ちゅうとう)』などにおいて平安時代の盗賊の横行を描いている。また大衆の共感をよぶ義賊の存在は、探偵小説の世界で、作者ルブランのアルセーヌ・ルパンArsène Lupin、チャータリスの聖者(セント)ことサイモン・テンプラーThe Saint Simon Templarなどを生んだ。また、自伝的な著作としては、フランソア・ビドックが書かせた『回想録』Ses Mémoires(1828)、ジャン・ジュネの『泥棒日記』(1949)などがある。
[梶 龍雄]
『野尻抱影著『大泥棒紳士館』(1971・工作舎)』
字通「盗」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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