赤崎城跡(読み)あかさきじようあと

日本歴史地名大系 「赤崎城跡」の解説

赤崎城跡
あかさきじようあと

[現在地名]大船渡市赤崎町 生形

大船渡湾奥東岸の台地にあり、まえ館とも称する。標高一〇メートルほど、東西二〇〇メートル・南北一五〇メートルで、南は海に面する断崖、北は窪地で近くに観音堂がある。県道さかり綾里りようり線で切断された形となっているが、北東部の山地側面にも土壇がみられ、城郭の一部をなしていたものと思われる。「仙台領古城書上」には城主新沼美作とあり、元禄一一年(一九八)の「気仙郡古記」には館名は不明で、城主新沼美作は深谷ふかや(現宮城県桃生郡河南町)で討死したとある。金家系譜(金文書)によれば金家二六代金為勝の次男為世与右衛門が当城主新沼美作の養子に迎えられたという。

赤崎城跡
あかさきじようあと

[現在地名]佐世保市赤崎町

赤崎岳(二四〇メートル)の南東斜面に築かれた中世の山城跡。「滝川慶寛覚書」に赤崎山屋敷とあり、城主を赤崎伊予守とする。山麓の佐世保港に面する入江にも屋敷跡があったとされ、現在もヤシキンダと称される。元亀三年(一五七二)佐世保城主遠藤但馬守盛胤が龍造寺氏に内通したとして、飯盛城主で宗家松浦一七代の親(九郎、平戸松浦氏からの養子)に謀殺されるが、のち当城の赤崎伊予守は佐世保中通なかどおりに移り、佐世保を領したという(滝川慶寛覚書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報