佐世保村(読み)させぼむら

日本歴史地名大系 「佐世保村」の解説

佐世保村
させぼむら

[現在地名]佐世保市元町もとまち浜田町はまだまち相生町あいおいちよう谷郷町たにごうちよう天満町てんまちよう高砂町たかさごちよう八幡町はちまんちよう松浦町まつうらちよう常盤町ときわちよう栄町さかえまち湊町みなとまち島地町しまんじちよう宮地町みやじちよう熊野町くまのちよう花園町はなぞのちよう宮田町みやだまち俵町たわらまち城山町しろやままち名切町なきりちよう山手町やまてちよう折橋町おりはしちよう松山町まつやまちよう赤木町あかぎちよう田代町たしろちよう保立町ほたてちよう中通町なかどおりちよう石坂町いしざかちよう万徳町まんとくちよう清水町しみずちよう福田町ふくだまち木場田町こばたちよう比良町ひらまち東大久保町ひがしおおくぼちよう西大久保町にしおおくぼちよう園田町そのだまち上町うわまち泉町いずみちよう長尾町ながおちよう矢岳町やたけちよう今福町いまぶくちよう金比良町こんぴらちよう平瀬町ひらせまち立神町たてがみまち御船町みふねちよう鵜渡越町うどごえちよう神島町かみしまちよう小島町こじまちよう赤崎町あかさきちよう鹿子前町かしまえちよう

現佐世保市域の北西部に位置し、南流する佐世保川が佐世保湾に注ぐ。村域は北西の但馬たじま岳・弓張ゆみはり岳の東麓に及び、南西は赤崎岳方面にわたる。中世より地名がみえる。鎌倉末期に現れる差布源三郎(嘉暦四年七月三日「東福寺領肥前国彼杵庄文書目録」正慶乱離志裏文書)の差布は、佐世保の異記と推定され、早くから当地を拠点とする勢力があったことが知られる。正平一七年(一三六二)には「佐世保源三郎源清」が彼杵一揆に参加している(同年九月日「彼杵一揆連判状断簡写」福田文書)。応安五年(一三七二)九月二六日の彼杵一揆連判状断簡写(同文書)には「佐瀬保源三郎」がみえる。永徳四年(一三八四)二月二三日の下松浦住人等一揆契諾状(山代文書)に「させほ石見守元」「させほのいまふく左京亮」とあり、五島を含む松浦まつら郡や彼杵そのき郡にわたる一揆であるが、当地名は石見守の名字の地でもあるだろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報