朝日日本歴史人物事典 「赤松持貞」の解説
赤松持貞
生年:生年不詳
室町時代の武将。赤松氏の庶流春日部家の出身,顕則(頼則ともいう)の子。越後守。将軍足利義持の近習として活躍し信任が厚かった。応永31(1424)年3月,伏見宮家の菩提寺大光明寺境内で,花見に訪れた持貞の妻女一行が禁制を破って飲酒のうえ花枝を折ったという一件は,当時の彼の傲慢ぶりを伝えている。同34年9月,赤松氏惣領の義則が没すると,義持は嫡子満祐が播磨守護職を継ぐことを認めず,これを持貞に与えようとした。満祐は安堵を求めたが許されず京都の自邸を焼いて播磨に下向,義持が諸大名に満祐追討を命じるという危機に発展した。ところが11月,ひとりの遁世者が義持に,持貞の女犯を列挙した書状をもって直訴におよぶという事件が起きた。しかもそのなかには義持の侍女も含まれており,こうした風紀の乱れをひどく嫌う義持は激怒,三宝院満済らの嘆願もむなしく持貞は切腹を命じられ,家臣十数人と共に自害した。こののち,ほどなくして細川持賢の仲介により満祐は義持と和解,父の任国であった播磨・備前・美作3国の守護職を安堵された。この事件は守護の強大化を抑えようとする将軍の意向や,家督を巡る守護惣領家と庶流の対立を背景に起きたもので,嘉吉の乱の予兆となった。また寵臣が1通の訴状によってたちまち死罪に処せられるという,足利将軍専制化の一端を示す事件でもあった。
(榎原雅治)
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