室町・戦国期の臨済宗の禅僧。別に島陰とも号す。周防(山口県)に生まれたが,家系は明らかでない。16歳で出家し,南禅寺雲興庵の景蒲玄忻に法を受けた。また,建仁寺の惟正明貞,東福寺の景召瑞棠などに参じ,儒学の講説を受けた。この後,長門(山口県)の永福寺に移り,1467年(応仁1)天与清啓の遣明使に随行して入明し,73年(文明5)に帰朝するが,当時,京都は応仁・文明の乱の最中であり,このため京都に帰ることなく石見(島根県)に乱を避けた。この後,76年には筑後(福岡県)に入り,同地の二尊寺に止宿し,翌年,肥後(熊本県)菊池に移り,菊池氏の主催する釈奠(せきてん)の式に参列した。この間,筑前の豪族秋月種朝や菊池氏の家臣隈部忠直などと詩の応答を行った。さらに,78年には,島津忠昌の招きにより薩摩(鹿児島県)へ移り,最初,竜雲寺に住していたが,その後,島陰寺(桂樹院)をはじめとして,日向(宮崎県)の安国寺,竜源寺などに移り住した。一方,81年には,国老伊知地重貞とともに《大学章句》を刊行。さらに,1501年(文亀1)には《家法和点》を著し,またみずからも儒書を講ずるなど薩摩における儒学の興隆にも尽力し,のちの薩南学派の祖となった。晩年には,建仁寺,南禅寺の公帳も受けている。著作には,先の《家法和点》のほか,詩文集《島陰漁唱》《島陰雑著》などがある。
執筆者:上田 純一
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室町時代の臨済(りんざい)宗聖一(しょういち)派の僧。別号は島陰(とういん)。長門(ながと)(山口県)赤間関の人。9歳で南禅寺雲興庵(うんこうあん)の景蒲玄忻(けいほげんきん)に師事し、おもに京都五山で内外の典籍を学び、宋儒(そうじゅ)の学に長じた。1467年(応仁1)遣明(けんみん)使に従って入明、朱子学などを学んで帰国し、島津氏の招聘(しょうへい)により薩摩(さつま)(鹿児島県)に桂樹庵(島陰寺)を開いて宋学を講じた。1481年(文明13)朱子(朱熹(しゅき))の新注を刻した『大学章句』を刊行するなどして、薩南(さつなん)学派の祖となった。また日向(ひゅうが)(宮崎県)安国寺を兼住、さらに建仁寺、南禅寺にも住し、永正(えいしょう)5年6月15日示寂。『島陰漁唱』『島陰雑考』『家法和点』などの著がある。
[石川力山 2017年6月20日]
(石井清純)
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1427~1508.6.15
室町中期~戦国期の臨済宗聖一(しょういち)派の禅僧。諱は玄樹,字は桂庵,別称は島隠(とういん)(陰)・海東野釈。周防国の人。16歳で出家。南禅寺の景蒲玄忻(けいほげんきん)に師事。1467年(応仁元)渡明,73年(文明5)に帰朝。その後,九州各地を歴遊。79年には島津忠昌が開創した薩摩の島陰寺(桂樹院)に住んで朱子新注による講説を行い,伊地知(いじち)重貞とともに朱子の「大学章句」を刊行。四書を門下に教授するために句読法を考案。のち京都の建仁寺・南禅寺の住持にもなったが,おもに薩摩・大隅・日向で中国の新思潮の紹介に努めた。その学統は近世の朱子学の源流となった。
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…同時期の大内氏(大内版)と同じく,島津氏も明と盛んに交易をするとともに,朱子学をはじめ学問や文化に深い関心を示した。1478年(文明10)島津忠昌(1463‐1508)は桂庵玄樹を招いて桂樹院を創立したが,桂庵が81年に開版した《大学章句》は,日本における《大学》(四書の一つ)の印行の最初といわれる。同81年には《聚分韻略(しゆうぶんいんりやく)》全5巻が開版されており,薩摩版の初めとされ,国立国会図書館などに現存する。…
※「桂庵玄樹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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