桂庵玄樹(読み)ケイアンゲンジュ

デジタル大辞泉 「桂庵玄樹」の意味・読み・例文・類語

けいあん‐げんじゅ【桂庵玄樹】

[1427~1508]室町後期の臨済宗の僧。長門ながとの人。別号、島陰。明に渡り、在明7年ののち帰国。薩摩さつま島津忠昌の帰依を受けて桂樹庵を開き、「大学章句」など朱熹の新注による四書を日本で初めて刊行し、薩南学派の祖とされる。著「桂庵和尚家法倭点」「島陰漁唱」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「桂庵玄樹」の意味・わかりやすい解説

桂庵玄樹 (けいあんげんじゅ)
生没年:1427-1508(応永34-永正5)

室町・戦国期の臨済宗の禅僧。別に島陰とも号す。周防(山口県)に生まれたが,家系は明らかでない。16歳で出家し,南禅寺雲興庵の景蒲玄忻に法を受けた。また,建仁寺の惟正明貞,東福寺の景召瑞棠などに参じ,儒学の講説を受けた。この後,長門(山口県)の永福寺に移り,1467年(応仁1)天与清啓の遣明使に随行して入明し,73年(文明5)に帰朝するが,当時,京都は応仁・文明の乱の最中であり,このため京都に帰ることなく石見(島根県)に乱を避けた。この後,76年には筑後(福岡県)に入り,同地の二尊寺に止宿し,翌年,肥後(熊本県)菊池に移り,菊池氏の主催する釈奠せきてん)の式に参列した。この間,筑前の豪族秋月種朝や菊池氏の家臣隈部忠直などと詩の応答を行った。さらに,78年には,島津忠昌の招きにより薩摩(鹿児島県)へ移り,最初,竜雲寺に住していたが,その後,島陰寺(桂樹院)をはじめとして,日向(宮崎県)の安国寺,竜源寺などに移り住した。一方,81年には,国老伊知地重貞とともに《大学章句》を刊行。さらに,1501年(文亀1)には《家法和点》を著し,またみずから儒書を講ずるなど薩摩における儒学の興隆にも尽力し,のちの薩南学派の祖となった。晩年には,建仁寺,南禅寺の公帳も受けている。著作には,先の《家法和点》のほか,詩文集《島陰漁唱》《島陰雑著》などがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂庵玄樹」の意味・わかりやすい解説

桂庵玄樹
けいあんげんじゅ
(1427―1508)

室町時代の臨済(りんざい)宗聖一(しょういち)派の僧。別号は島陰(とういん)。長門(ながと)(山口県)赤間関の人。9歳で南禅寺雲興庵(うんこうあん)の景蒲玄忻(けいほげんきん)に師事し、おもに京都五山で内外の典籍を学び、宋儒(そうじゅ)の学に長じた。1467年(応仁1)遣明(けんみん)使に従って入明、朱子学などを学んで帰国し、島津氏の招聘(しょうへい)により薩摩(さつま)(鹿児島県)に桂樹庵(島陰寺)を開いて宋学を講じた。1481年(文明13)朱子(朱熹(しゅき))の新注を刻した『大学章句』を刊行するなどして、薩南(さつなん)学派の祖となった。また日向(ひゅうが)(宮崎県)安国寺を兼住、さらに建仁寺、南禅寺にも住し、永正(えいしょう)5年6月15日示寂。『島陰漁唱』『島陰雑考』『家法和点』などの著がある。

[石川力山 2017年6月20日]

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朝日日本歴史人物事典 「桂庵玄樹」の解説

桂庵玄樹

没年:永正5.6.15(1508.7.12)
生年:応永34(1427)
室町時代の臨済宗の僧。周防,一説に長門(共に山口県)の人。別号島陰。儒学に秀で,西国を中心とした薩南学派の祖とされる。9歳で南禅寺に入り景蒲玄忻に随侍,惟正明貞に師事して朱子学を学んだ。応仁1(1467)年に遣明使の随行として入明,7年間にわたって儒学を研鑚した。帰国ののち,肥後(熊本県)の隈部忠直に招かれて宋学を講じる。こののち九州を中心に活動,島津氏一族の篤い帰依を受けて薩摩(鹿児島県)に島陰寺(桂樹庵)を構えた。その学系は文之玄昌から藤原惺窩におよび近世朱子学の源流となった。また,独自の訓点法を記した『家法倭点』は,儒学史上きわめて重要視される。<著作>『桂庵和尚家法倭点』『島陰漁唱』<参考文献>武藤長平「桂庵禅師と薩藩の学風」(『歴史地理』21巻2号)

(石井清純)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「桂庵玄樹」の解説

桂庵玄樹
けいあんげんじゅ

1427~1508.6.15

室町中期~戦国期の臨済宗聖一(しょういち)派の禅僧。諱は玄樹,字は桂庵,別称は島隠(とういん)(陰)・海東野釈。周防国の人。16歳で出家。南禅寺の景蒲玄忻(けいほげんきん)に師事。1467年(応仁元)渡明,73年(文明5)に帰朝。その後,九州各地を歴遊。79年には島津忠昌が開創した薩摩の島陰寺(桂樹院)に住んで朱子新注による講説を行い,伊地知(いじち)重貞とともに朱子の「大学章句」を刊行。四書を門下に教授するために句読法を考案。のち京都の建仁寺・南禅寺の住持にもなったが,おもに薩摩・大隅・日向で中国の新思潮の紹介に努めた。その学統は近世の朱子学の源流となった。

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百科事典マイペディア 「桂庵玄樹」の意味・わかりやすい解説

桂庵玄樹【けいあんげんじゅ】

室町中期の臨済宗の僧,儒家。号は島陰(とういん)。周防(すおう)の人。明(みん)にあること7年,のち薩摩(さつま)・日向(ひゅうが)に住した。ことに《尚書》に詳しく,四書の新注の訓法は,岐陽(きよう)不二から惟肖得巌(いしょうとくがん)を経て桂庵に伝わり,その改訂を受け,さらに3代後の弟子の文之玄昌(ぶんしげんしょう)により世に普及した。著書《島陰漁唱》《島陰雑著》《家法倭点(わてん)》。
→関連項目薩南学派

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桂庵玄樹」の解説

桂庵玄樹 けいあん-げんじゅ

1427-1508 室町-戦国時代の僧。
応永34年生まれ。臨済(りんざい)宗。南禅寺の景蒲玄忻(けいほ-げんきん)の法をつぐ。応仁(おうにん)元年明(みん)(中国)にわたって朱子学をまなぶ。帰国後,薩摩(さつま)(鹿児島県)島陰寺で朱子学をおしえ,文明13年伊地知(いじち)重貞とともに朱子の「大学章句」を刊行。薩南学派の祖とよばれる。永正(えいしょう)5年6月15日死去。82歳。周防(すおう)(山口県)出身。別号に島陰。著作に「島陰漁唱」「桂庵和尚家法倭点」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「桂庵玄樹」の解説

桂庵玄樹
けいあんげんじゅ

1427〜1508
室町後期の臨済宗の僧。薩南学派の祖
長門 (ながと) の人。1467年入明し『尚書 (しようしよ) 』を学ぶ。'73年帰国後,石見 (いわみ) ・筑後・肥前を遍歴し,釈奠 (せきてん) (孔子を祭る典礼)を行い儒書を講じた。'78年薩摩の島津忠昌に招かれ,朱子学を講じ薩南学派をおこした。『大学章句』を初めて出版,四書五経の句読法を一定した「家法倭点」を定め,日本朱子学史上に一時期を画した。また詩文集として『島陰漁唱』などがある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桂庵玄樹」の意味・わかりやすい解説

桂庵玄樹
けいあんげんじゅ

[生]応永34(1427).周防,山口
[没]永正5(1508).6.15. 薩摩,伊敷
室町時代後期の臨済宗の僧。別号は島陰。応仁1 (1467) 年遣明使天与清啓に従って中国に渡り,文明5 (73) 年帰朝し石見から筑後,肥前など諸国をめぐって儒学を講じ,同 10年島津忠昌に招かれ薩摩に桂樹庵を開講し,薩南学派の基をつくった。著書に『外集』『島陰漁唱』『島陰雑考』『南游集』がある。

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世界大百科事典(旧版)内の桂庵玄樹の言及

【薩摩版】より

…同時期の大内氏(大内版)と同じく,島津氏も明と盛んに交易をするとともに,朱子学をはじめ学問や文化に深い関心を示した。1478年(文明10)島津忠昌(1463‐1508)は桂庵玄樹を招いて桂樹院を創立したが,桂庵が81年に開版した《大学章句》は,日本における《大学》(四書の一つ)の印行の最初といわれる。同81年には《聚分韻略(しゆうぶんいんりやく)》全5巻が開版されており,薩摩版の初めとされ,国立国会図書館などに現存する。…

※「桂庵玄樹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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