中国,明代の文人,書画家。蘇州府長洲県(現,江蘇省呉県)相城里の人。字は啓南。号は石田,白石翁。沈石田の呼称でも知られる。沈氏は元代以来の相城里の名家で,代々官途には就かず処士として家産の経営に努めた。祖父の沈澄は学問にすぐれ文芸を好み,多くの文人と交遊し,父の沈恒,叔父の沈貞も学問,詩画をよくし,沈周の家は蘇州近郷の文化の中心的存在として繁栄した。沈周は群書を博覧し,詩文書画にすぐれたが,科挙には応ぜず生涯処士として隠逸的な文雅の生活を送った。詩は白居易,蘇軾(そしよく),陸游を,書は黄庭堅を学び,画は沈恒,沈貞のほか陳寛,杜瓊(とけい),劉珏に師事し山水,花卉(かき)雑画をよくした。とくに山水画は董源,巨然,元末四大家を師法としたが,中でも黄公望,呉鎮の影響が著しい。文人画に新境地を開き,その周囲には呉寛,李応禎,朱存理ら多くの文人が集まった。門下より以後の蘇州画壇を指導した文徴明,唐寅(とういん)などを輩出し呉派の祖として後世の画家に非常に重んじられた。代表作に《杖藜遠眺図》(ネルソン・ギャラリー),著に《石田集》がある。
執筆者:湊 信幸
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中国、明(みん)代中期の文人画家、詩人。周は名。字(あざな)は啓南(けいなん)。号は石田(せきでん)、白石翁。長州(江蘇(こうそ)省蘇州(そしゅう))の人。江南の書画に精通した文人の家系に生まれる。才能に恵まれたが仕官せず、83歳の高齢で亡くなるまで、市井にあって芸術三昧(ざんまい)の生活に終始した。折り目正しい性格で、学識も深かったので石田先生と敬称され、書の祝允明(しゅくいんめい)をはじめ多くの秀才がその周辺に集まった。その門下から明末の蘇州画壇の中心となる文徴明(ぶんちょうめい)、唐寅(とういん)を出し、また文徴明から董其昌(とうきしょう)を経て盛んとなる南宗画の祖となった。沈周は広く宋元(そうげん)の名跡を模写、研究し、中年に元末の四大家の黄公望(こうこうぼう)、晩年には同じく四大家の呉鎮に傾倒したと伝える。画題は山水、人物から花卉(かき)、禽魚(きんぎょ)に及んだが、とくに山水画を得意とし、また文人墨戯としての花卉雑画もよくした。
[星山晋也]
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…明代前半に栄えた職業画工による浙派に対する語。沈周(しんしゆう)が元末四大家の画風を復興したことに始まり,文徴明とその周辺画家により様式的完成に導かれた。文徴明の親族や弟子たちの活動は16世紀後半に及び,呉派の全盛時代を築いた。…
…いやむしろ,元代からさらに明代中期までは,北宋華北山水画から南宋院体画風をも含めたより幅広い伝統によった,元の四大家以外の系統の画家たちの方が山水画壇の中でより大きな位置を占める一方,明代も中期以後になって,元の四大家につながる画家たちが勢力を増してくる。前者はその代表とされる戴進が杭州出身であったため,明代に入って浙派と称され,後者は沈周(しんしゆう)を始めとして主に蘇州出身の画家によって形成されたため,呉派と呼ばれ,あわせて明代絵画史を画する二大潮流をなした。明末に至って董其昌は禅の宗派にたとえて,浙派を唐の宗室画家の李思訓・李昭道父子に始まる北宗(ほくしゆう),呉派を盛唐の詩人でもあり文人画家でもある王維に始まる南宗(なんしゆう)とする南北二宗論を展開し,董源,巨然から米芾,米友仁,元の四大家を経て呉派文人画に至る,南宗画の正統を継承すると自負する自己の史的位置を,山水画の始源にまでさかのぼって確立しようとした。…
※「沈周」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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