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赤松政秀 あかまつ まさひで

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

赤松政秀 あかまつ-まさひで

1421?-1502 室町-戦国時代の武将。
応永28年?生まれ。応仁(おうにん)の乱に際し,嘉吉(かきつ)の乱後没落していた赤松家の遺臣たちと播磨(はりま)(兵庫県)で蜂起,赤松政則をたすけ旧領を回復した。のち塩屋城主。文亀(ぶんき)2年10月25日死去。82歳? 法名は性喜。字(あざな)は歓岩。号は高枕軒。同姓同名で元亀(げんき)元年(1570)に死去した2代竜野(たつの)城主とは別人。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

赤松政秀

没年:文亀2.10.25(1502.11.24)
生年:応永28?(1421)
室町時代の武将。赤松氏庶流の出身。播磨西8郡守護代。下野守。法名高枕軒性喜。嘉吉1(1441)年の嘉吉の乱以前,父祖は揖保郡石見で守護代を務め石見殿と呼ばれていた。乱後は没落していたが,享徳3(1454)年に赤松則尚が家門再興を企てて挙兵すると,これに呼応して政秀は赤穂郡の山野里に陣を敷いた。これが失敗すると再び雌伏するが,長禄2(1458)年,赤松政則が加賀半国守護として復権し,応仁1(1467)年に応仁の乱が起こると,当時山名氏の領国となっていた播磨に入り国人たちを帰服させた。そして同国に政則を迎え入れ,その播磨・備前・美作守護職回復に大きく貢献した。その後も主家をよく補佐し,政則の死後,重臣浦上氏が則宗・村国の2派に分かれて抗争したときも幼君義村を奉じる則宗を支援,さらに細川政元の仲介を請うて両軍を和睦させた。一方,九条家領田原荘,山科家領下揖保荘,東寺領矢野荘,賀茂社領塩屋荘をはじめ西播磨一帯の荘園の代官職を一身に兼ねたほか,重要港湾の網干も手中に収めて富貴を極め,その勢いは主家をしのいだ。居城は赤穂郡の高田からのち揖保川河口の塩屋に移った。文亀2(1502)年病死。守護代ほかの所職は子則貞に譲られ,その後もしばらくは西播で強勢を誇ったが,やがて内紛が起こり主家と前後して衰えた。<参考文献>石田善人「ふたりの赤松下野守政秀」(『兵庫県の歴史』14巻)

(榎原雅治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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