イタリア北部リグリア州の州都で人口約58万人。古くから海洋貿易で栄え、探検家コロンブスの出身地とも言われている。中世のサンロレンツォ大聖堂など歴史的建築物が残り、日本からも観光客が訪れる。地中海有数の貿易港があり、14日に崩落した通称「モランディ橋」はフランスなどからの貨物トラックが多く通行するほか、旅行者や地元住民も利用し渋滞がよく起きていた。(ローマ共同)
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北イタリア,リグリア州の都市。人口61万(2005)。英語ではジェノアGenoa。イタリア最大の貿易港で,ジェノバ湾の奥,リグリア・アペニノの前山が海に迫り,狭い平地を囲んでいる所に成立した。西にポルチェベーラ,東にビザーニョと二つの川が海に注いでいる。19世紀まで都市域はこの平地とその周辺に限定されていたが,その後の発展により,海岸沿いに東西に延びるとともに背後の丘陵地に拡大した。1926年の町村合併によって現在の都市面積は234.8km2,海岸線は33.5kmに及ぶ。住宅地は丘陵の上に広がっており,低地の旧市街地は商工業の中心,港湾関係の労働者の居住地となっている。一方,ポルチェベーラの谷を中心に工場労働者の住宅地が続いている。旧市街地は新しい道路の建設,トンネルの開削などの再開発が行われているにもかかわらず,曲がりくねった細い道や坂,階段などの特徴的な景観を残している。
港のすぐ東側の低地が中世以来の歴史的中心地である。12世紀に建てられた市門,12~14世紀のサン・ロレンツォ大聖堂(大円蓋は16世紀ジェノバの代表的建築家ガレアッツォ・アレッシGaleazzo Alessi(1512-72)の作),大聖堂と同じく大理石の黒白の横じま模様に飾られたドリア家のパラッツォ(15~16世紀),さらにかつてのサン・ジョルジョ銀行のパラッツォ(一部は13世紀,一部はルネサンス期)などがある。さらに北側の丘の中腹には都市貴族の豪華なパラッツォが建ち並ぶガリバルディ通りがある。これらはジェノバ金融資本の全盛期であった16~17世紀のもので,貴族政共和国ジェノバの象徴である。前述のアレッシがその時代の代表的建築家であった。現在のジェノバははるかに拡大し,いくつもの町を階段状に積み上げたような構造になっている。第2次大戦の戦火によってこれらの歴史的建造物にも被害があったが,すでに修復されている。
港としてのジェノバはミラノを中心とするロンバルディア,トリノを中心とするピエモンテというイタリアの工業先進地に結びついている。これらの地域に工業原料,石炭,石油,機械類などを供給すると同時に穀物その他の食糧の供給を行う。また工業製品や米,オリーブ油,ブドウ酒などを輸出する。年間取扱貨物は4800万t(1977)に達する。またジェノバには化学工業(石油化学,セッケン製造),機械工業(アンサルド造船所など),金属工業が発達し,ミラノ,トリノとともに〈鉄の三角地帯〉を形成している。ECの経済的統合の進展,モンブラン・トンネルの開通による交通の便宜の増大によって,ジェノバの後背地はアルプスの北にまで拡大しつつある。それと同時に,就業人口の過半数を第3次産業が占めるようになってきている。
ジェノバは前2世紀にローマの軍事拠点として建設されたと推測されている。その後,港として発展し,3世紀ごろには司教座が置かれた。ランゴバルド時代には衰え,10世紀にはイスラム海軍のたび重なる攻撃を受けた。カロリング朝断絶後,この地方はオベルテンギ家の所領となり,その家臣の中から後にデラ・ボルタ,スピノラなどの有力な都市貴族が出ることになる。10世紀には市壁が築造され,周辺農村からこれらの貴族層が都市へ移住した。彼らは船団を仕立ててイスラム海軍と戦いつつ,コルシカ,サルデーニャなどへ勢力を拡大した。1100年,十字軍救援のための船団が出港する際に,都市内の平和を維持するための誓約団体compagna communisが結成されたが,これが後に都市の自治組織に発展した(コムーネ)。十字軍の結果,ジェノバは聖地にも拠点を獲得し,西地中海だけでなく東地中海にも進出することになった。そのためピサおよびベネチアとの対立が激化した。またシチリア王国を建設したノルマンに協力し,南イタリアにも足場を築いた。ピサとの抗争は1284年のメロリア(リボルノの近く)の海戦の勝利で決着がついたが,ベネチアとの争いはなお永く続いた。第4回十字軍(1204)によりビザンティン領域から追われたジェノバ人は1260年に復帰し,コンスタンティノープルに接したペラに居留地を設け,クリミア半島のカッファ(現,フェオドシア)やドン川の河口のタナにも拠点を得た。黒海は商業的には〈ジェノバの湖〉になったという。13世紀後半から14世紀初頭にかけて,ジェノバは黒海,エーゲ海(キオス島,レスボス島),ファマグスタ(キプロス島)などを結ぶ海上帝国を建設することに成功し,1298年にはベネチアとの海戦にも勝利を収めた。また,ジェノバ湾沿岸を支配するとともにアルプスやロンバルディア方面への通路を確保する一方,マルセイユ,モンペリエなどと競争でスペインや北アフリカで商業活動を活発に行った。さらにシャンパーニュの市を通じて北西ヨーロッパとの関係を緊密にした。このようにジェノバは地中海の一大商業勢力となったが,ライバルであるベネチアと違って,強固な国家を建設することには成功しなかった。フィエスキ,グリマルディ,ドリア,スピノラなど,農村に強固な基盤をもつ貴族層が都市の支配をめぐって激しく争い,政治がつねに不安定であった。それに乗じて14世紀以降外国勢力が介入するようになった。ナポリのアンジュー家(1318-35),フランス(1396-1421),ミラノ(1421-36,1464,1499)がジェノバを支配した。貴族支配に対する民衆の抵抗もたびたび試みられた。1339年にシモーネ・ボッカネグラが終身総督(ドージェ)に選ばれたのも,このような運動の結果である。この制度自体は16世紀まで存続したが,都市内の抗争を解決することはできなかった。
ジェノバの社会はベネチアに比べて個人主義的な色彩が濃厚である。海外植民も国家的事業としてではなく,家ないし同族団の私的企業として行われる例が多かった(アルベルゴ)。植民地が本国の統制に服さず,両者の間に紛争が生ずる場合もしばしばあった。15世紀に入ると,オスマン・トルコの進出がジェノバに大きな脅威を与えた。小アジアの沿岸や黒海の植民地は次々にトルコによって奪われた。その結果,ジェノバは西ヨーロッパに活動の場を求めるようになった。ベネチア人が最も利益の多い香料貿易の大部分を押さえていたために,ジェノバ商人は香料のほかに穀物,ミョウバン,ブドウ酒,油,皮革など多様な商品を各地の市場に送っていた。彼らはカディス,セビリャ,リスボン,ブリュージュ,ロンドンに居留地を設け活動した。手形,海上保険,複式簿記などの商業技術も彼らの手で改良された。一方,都市内では公債引受者団体であるサン・ジョルジョ銀行Casa di San Giorgioが事実上都市財政を支配するようになった。16世紀に入ると,ジェノバは皇帝(ハプスブルク)とフランス(バロア)の争いに巻き込まれ,1522年には皇帝軍による略奪を受けた。28年,それまでフランス側についていた有名な提督アンドレア・ドリアAndrea Doria(1466-1560)がカール5世と結んで自治権を回復することに成功した。終身総督の制度が廃止されて貴族政共和国が成立し,その後2世紀間続くことになる。スペインとの関係は密接になり,ジェノバの金融業者はスペイン王の御用銀行家となった。1550年から1650年までの1世紀がその最盛期であり,ジェノバ商人が広範囲な活動で集積した資本はスペインおよび新大陸に投下された。スペインの衰退とともにジェノバも困難な状況に置かれ,フランスおよびサボイアによる脅威にさらされた。84年,ルイ14世は海上からジェノバを砲撃させたが,市民はよくこの攻撃に耐えた。しかし,1729年のコルシカの反乱を鎮圧することができず,68年にはこの島をフランスに譲渡せざるをえなかった。フランス革命後の97年5月,ジェノバはフランス軍に占領され,16世紀以来の貴族政共和国は解体した。同年11月,フィリッポ・ブオナローティの指導の下に〈リグリア共和国〉が成立したが,1805年にフランスに併合され,さらにウィーン会議の後,ジェノバはサルデーニャ王国領となった(1815年1月)。しかし,その共和政の伝統は根強く存続した。マッツィーニ派の拠点の一つになったのも,34年にガリバルディが蜂起を企てたのも,さらに彼が60年に〈千人隊〉を率いてシチリア遠征に出発したのも,ジェノバであった。イタリア王国が成立すると,ジェノバはピエモンテの発展とともに急速に成長した。19世紀初頭の人口は9万7000であったが,統一後には13万に増大し,1901年に30万に達した。国家の保護のもとに食品工業,繊維工業,金属工業が発達し,1910年ごろには伝統的な商業,造船業をも脅かすようになった。また,1877年から10年間にわたり,巨額の費用を投じて港の大改修が行われた。都市改造も試みられてきたが,地形的な制約が大きく,とくに市内の交通事情は大問題になっている。
執筆者:清水 廣一郎
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イタリア北西部、リグリア州の州都。人口60万3560(2001国勢調査速報値)。英語名ジェノアGenoa。リグリア・アペニン山脈が背後に迫るジェノバ湾の奥に位置する港湾・工業都市。1926年に19のコムーネ(市町村)が併合し、現在の大ジェノバが形成された。市の面積は238平方キロメートルで、海岸線に沿って西のボルトリから東のネルビまで33キロメートルにわたって広がり、内陸部はポルチェベラ川に沿って北のポンテデチモまで延びている。ジェノバ港は、リグリアのみならずロンバルディア州およびピエモンテ州というイタリア最大の工業地帯を後背地に有し、取り扱う貨物量の多さにおいては同国第1位(1998)の規模を誇っている。またフランスのマルセイユとともに地中海でも最大級の港となっている。同港の重要輸入品である石油は、ジェノバとその周辺で利用されるだけではなく、2本のパイプラインによって、コルテマッジョーレ(ピアチェンツァ県)に、あるいはミラノ近郊のローを経て遠くドイツにまで運ばれている。工業活動としては、製鉄(イタルシデル社)、造船(アンサルド社)、石油化学、化学、食品などの部門が盛ん。地域的にいえば、サンピエルダレーナからボルトリにかけての海岸地帯とポルチェベラ川の渓谷が、ジェノバの工業地帯となっている。他方、地域経済に占める農業の比重はごくわずかにすぎない。
コロンブスの生地として知られ、彼の家や洗礼を受けたサント・ステーファノ教会がある。ポルチェベラ川の河口付近にある空港は、彼にちなんでクリストフォロ・コロンボ空港と名づけられている。市内には由緒ある建築物が多数あり、とりわけガリバルディ通りとバルビ通りには16~17世紀の宮殿が多く残っている。なかでもガリバルディ通りにあるポデスタ宮殿、現在美術館となっている白の宮殿と赤の宮殿、また、バルビ通りのウニベルシタ宮殿、かつての王宮バルビ・ドゥラッツォ宮殿などは有名である。そのほかにもサン・ロレンツォ大聖堂(12~14世紀)、著名なサン・ジョルジョ銀行の本部が置かれたサン・ジョルジョ宮殿(1260ころ)、国立美術館となっているスピノラ宮殿(16世紀)、サンタ・マリア・ディ・カリニャーノ教会(16世紀)などがある。温和な気候と美しい海岸線で知られる国際的観光地帯リビエラの中心地でもある。
[堺 憲一]
2世紀にローマの前線拠点として建設されたのち、ローマからマルセイユに至るアウレリア街道上の重要地点として発展した。6世紀にビザンティン帝国領、7世紀にランゴバルド王国領になった。地勢上の条件によって後背地に恵まれず、早くから海上活動に進出したが、10世紀にはイスラム海上勢力の攻撃を受け、大きな損害を被った。この時代、ジェノバはオベルテンギ公領となり、その臣下によって統治された。その家柄からスピノラ家のような有力な都市貴族が生まれた。
10世紀末からイスラム勢力に対する反攻が始まり、11世紀にはピサと連携してサルデーニャやバレンシアへの攻撃が行われ、西地中海一円へ勢力を拡大した。さらに十字軍活動に参加したことにより、レバントへも進出した。また11世紀末~12世紀初頭にはコムーネ(自治都市)が形成され、事実上の共和国となった。西地中海ではピサと争って勝利を収め、東地中海では東方貿易の覇権をめぐってベネチアと激しく争い、13、14世紀にはキオス島、レスボス島、黒海沿岸などに植民地を設けた。取扱い商品は香料、皮革、オリーブ油、ぶどう酒、穀物、あるいは奴隷など多種にわたった。とくに15世紀にはキオス島を基地とし、小アジアの明礬(みょうばん)(媒染剤に用いる)をヨーロッパ最大の毛織物の生産地であるフランドルへ大量に輸送した。
しかし15世紀後半にオスマン帝国が進出すると、黒海やエーゲ海の植民地を次々に失った。ジェノバ商人は蓄積した莫大(ばくだい)な富をスペインやポルトガルに投資し、「新大陸」や大西洋岸の貿易に大きな役割を果たした。政治的にはミラノ、フランス、スペインの間で独立を維持することに努力し、17世紀にはサボイア家の介入を排除しなければならなかった。オーストリア継承戦争(1740~48)の際にはオーストリア軍に攻囲され、1768年には最後の植民地コルシカをフランスに譲渡しなければならなかった。1815年にサボイア家の支配下に入り、サルデーニャ王国の港として発達した。1861年にイタリア王国が成立すると、イタリア最大の貿易港に発展。商工業のミラノ、トリノとともにイタリアにおける産業革命の中心としての役割を果たした。
[清水廣一郎]
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…すでに10世紀後半には,皇帝やイタリア王が北イタリアの都市住民に特定の権利を認める特許状を授与する例が見られる。ベレンガリオ2世がジェノバの住民に(958),皇帝オットー3世がクレモナの住民に(996),同じくハインリヒ4世がピサおよびルッカの住民に(1081)など。これは,都市住民がすでに団体を結成し,みずからの意志を決定するなんらかの機関を持っていたことを示すものである。…
…内陸部のキリスト教勢力は11世紀になってようやく団結して,イスラム勢力と戦うようになり,1066年にカリアリのトルキトリオ・ディ・ラコン・ウナリ家の支配が確立した。同時にこの頃からピサ勢力の浸透が始まったが,やがてジェノバ勢力もピサに対抗して商業面および政治面でサルデーニャへの浸透をはかるようになり,13世紀にはピサおよびジェノバの両共和国の争いに,教皇,神聖ローマ皇帝,アンジュー家なども加わって,サルデーニャの政治状態はまったく混乱したものとなった。結果として,多くの都市がジェノバの影響下に入り,サッサリをはじめ,これらの都市の多くは自治都市として憲章をもつようになった。…
…これはこのころシチリアに進出し,ビザンティン帝国に脅威を与えていたノルマン人に対抗して,ベネチア船隊が皇帝に援助を提供したためである。一方,イタリア西岸のジェノバ,ピサなどはコルシカ,サルデーニャなどのイスラム勢力と戦い,スペインや北アフリカまで商業圏を拡大した。ノルマンのシチリア征服(1072年パレルモ陥落)によって東,西地中海が再結合され,イタリア,カタルニャ,南フランスの商人が活発に往来するようになった。…
※「ジェノバ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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