レオナルド・ダ・ビンチ(読み)れおなるどだびんち(英語表記)Leonardo da Vinci

日本大百科全書(ニッポニカ) 「レオナルド・ダ・ビンチ」の意味・わかりやすい解説

レオナルド・ダ・ビンチ
れおなるどだびんち
Leonardo da Vinci
(1452―1519)

イタリア・ルネサンス期の画家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者。したがってルネサンスにおける典型的な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)と目されている。

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生涯

フィレンツェの近郊ビンチ村に、公証人ピエロと農家の娘カテリーナとの庶子として生まれる(4月15日)。幼少時についてはバザーリほかにより才能の多彩が記されている以外、あまり知られておらず、14、15歳のころフィレンツェに出て、画家、彫刻家であるアンドレア・デル・ベロッキオの工房に徒弟として入り、美術家としての道を歩み始める。1482年、30歳のとき、ミラノの支配者ルドビコ・スフォルツァ(通称イル・モロ)Ludovico Sforza, Il Moro(1452―1508)のもとに自薦状を提出してミラノに移る。自薦状には、あらゆる種類の土木工事、築城、兵器の設計ならびに製造に関し、自らの多方面の才能を数えたてたあとに、平和な時勢にあっては、絵画ならびに石造彫刻、鋳造彫刻の技にたけていることを付け加えている。47、48歳のころ、フランスのルイ12世軍ミラノ侵攻(1499年10月)を機に20年近く滞在したミラノを去り、マントバで公妃イサベラ・デステIsabella d'Este(1474―1539)の肖像を素描し(1500年2月)、ベネチアに立ち寄り(同年3月)、フィレンツェに戻る。1502年の夏から約8か月間、チェーザレ・ボルジャの軍事土木技師としてロマーニャ地方に従軍。ボルジャの失脚でフィレンツェに戻るが、1506年54歳のとき、ミラノ駐在のフランス総督シャルル・ダンボワーズCharles Ⅱ d'Amboise(1473―1511)の招きで再度ミラノに赴き、ルイ12世の宮廷画家兼技術家として6年余仕えた。さらに1513年、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチGiuliano di Lorenzo de' Medici(1479―1516)の招きでローマに移るが、1516年にはフランソア1世の招きでフランスへ行き、1517年にはアンボアーズ王城の近郊クルー城館に移り、比較的平穏な余生を送り、さまざまな研究を続けていたが、1519年5月2日、同地で忠実な弟子フランチェスコ・メルツィFrancesco Melzi(1491―1570)にみとられて67歳の生涯を閉じた。

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美術作品

レオナルドの絵画作品で今日に残るものは数少ない。ベロッキオの工房にあった第一次フィレンツェ時代には、師および同門との協同作『キリストの洗礼』(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)、『ジネブラ・デ・ベンチの肖像』(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)、2点の『受胎告知』(ウフィツィとルーブル美術館)、ともに未完の『三博士の礼拝』(ウフィツィ)と『聖ヒエロニムス』(バチカン美術館)がある。第一次のミラノ時代にはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂食堂の『最後の晩餐(ばんさん)』のほか、サン・フランチェスコ教会無原罪懐胎礼拝堂のための祭壇画『岩窟(がんくつ)の聖母』(現、ルーブル)、素描のみが現存する彫刻『スフォルツァ騎馬像』を制作している。第二次フィレンツェ滞在中には、ミケランジェロと競作になるはずであったパラッツォ・ベッキオ内の大壁画『アンギアリの戦い』(素描や模写のみ現存)を手がけ、その後はミラノ、フィレンツェ、ローマなどを遍歴の時期に『モナ・リザ』(ルーブル)を描き、弟子プレディスGiovanni A. de Predis(1455―1508)の『岩窟の聖母』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)を指導、晩年近くには『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』(ともにルーブル)を手がけている。

 このほか、素描の段階に終わった彫刻『トリブルツィオ将軍騎馬像』その他を加えても、レオナルドの芸術上の遺作は非常に少ないが、美術史上に記した足跡はきわめて大きい。すなわち、絵画史のうえでは遠近法ならびに解剖学というクワットロチェント(15世紀)の精密な自然描写をさらに推し進めて、画面の統一構成ならびにスフマート(輪郭消失描法)による立体表現、明暗法を案出して、グラツィエ(優美)の表現を意図し、ルネサンス古典様式の典型とされる。彫刻では、残された多くの素描から判断すると、像は静止像でなく、人馬の躍動する姿を追求し、そのための構成上の手段が種々考えられたように見受けられるが、巨大なブロンズ作としては力学的に制作が困難で、前記2点とも完成していない。

 また建築上の仕事としては、これまた彼の設計になる建造物は実現されていないが、集中式の教会建築に特殊な興味を抱き、細部の力学的な構造を示す習作を数多く残している。さらに一種の都市工学に関する構想をもち、それによると、都市を二重構造にし、下の道路は生活物資の運搬に、上の道路は人の自由な歩行のために、また道路の幅に応じて建造物の高さを規制し、海か川に面した都市の設計を理想としていたことがわかる。

 以上でほぼ推測されるように、今日に残されたレオナルドの芸術上の作品は意外に少なく、他方それらの完成品のもととなった素描・エスキスの類は膨大な量に上り、彼が寡作の人であったことを証明している。大別すると、素描・エスキス約500枚、手稿5000ページが、今日、イギリス、フランス、イタリア、スペインなどに分散して収蔵されている。素描は前記美術的な遺作のもととなった準備的な習作の類であり、エスキスは200枚に及ぶ解剖図のほか、機械工学、水力学、築城、飛翔(ひしょう)などに関する考案・くふうに満ちている。彼はつねづね手製の小冊子を持ち歩き、おりに触れての断想や観察を記入し、図と文節を交えて書きとどめている。左利きであったレオナルドは、それらの手稿に記入する際、文字を全部裏返しにして右から左に向けて綴(つづ)った。鏡に写すことによって初めて正常な書体になるので鏡字とよばれたが、これは研究の秘密が露見することを恐れたくふうではなく、もともと彼が左利きであったことによる。

 この手稿類のなかから、絵画の理論と実技に関する部分を取り出して、弟子がレオナルドの『絵画論』1巻を編集したことは有名で、その原本は今日バチカンの教皇図書館に収蔵されている。

 なお、レオナルドの同時代人による伝記に、パオロ・ジョビオPaolo Giovio(1483―1552)、アノーニモ・マリアベッキアーノAnonimo Magliabechianoらによる断片的なもの、およびジョルジョ・バザーリによる2種の伝記(初版および2版)がある。

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科学・技術史からみたレオナルド

レオナルドは、その生涯に膨大な数の手稿を残した。それらの手稿には、絵画、彫刻、建築ばかりでなく、天文、気象、物理、数学、地理、地質、水力、解剖、生理、植物、動物、土木工事、河川の運河化、物をあげたり移動したりする装置、灌漑(かんがい)用排水装置、兵器、自動人形、飛行のための装置など多彩な分野のものが含まれている。

 彼のそもそものスタートは絵画・彫刻であるが、その絵画・彫刻への関心を深めれば深めるほど、デッサンなどに精密さが要求され、おのずと観察力は鋭くなり、それが何事も徹底的に探究しなければ、事物に対する認識を深めることはできないとまで考えるに至ったのであろう。たとえば、人物を描くには人体に関する知識の必要性を感じ、その知識を修得するために解剖を必要とした。レオナルドは手稿のなかで次のように述べている。「正確かつ完全な知識を得んがため、私は10あまりの人体を解剖し、さまざまな肢体すべてを解き、そして毛細血管から出る目に見えない血のほかは、いささかの出血をもおこすことなくそれらの血管の周りにある肉を、ごく微細な切れ端に至るまですっかり取り除いてしまったのである。おまけに1個の死体だけではそんな長い時間に十分できなかったので、次から次へと数多くの死体によって継続する必要があった。こうしてやっと完全な認識に達したのであった」。

 このような姿勢で自然を観察し、自然を認識していったのである。絵の手法を修練する過程でも、遠近法の原理を取り入れようとすれば、それに伴って数学の知識も必要になる。徹底して探究していくことによって、いろいろな分野に論及せざるをえなくなっていくのである。

 鳥の飛び方についての研究では、重さと密度の関係、風圧が翼に及ぼす力の影響について実験し、力学運動について論じている。そして鳥とまったく同じ原理の器械をつくり、動力源に人間を使えば、人間が空を飛ぶことができるのではないかと考えるのである。空を飛ぶという夢を実現しようと、パラシュートやヘリコプターのようなものまで考案している。

 レオナルドは、鋭い観察によって自然界に対する認識を深めたが、同時に機械技術にも大きな関心をもっており、自然界は力学的・機械的運動をしているのではないかと考えたのである。そして、そのようななかから生まれた彼の哲学は「知恵は経験の娘である」ということばに代表されるものである。「二度三度それを試験して、その試験が同一の結果を生ずるか否かを観察せよ」「ただ想像だけによって自然と人間との間の通訳者たらんと欲した芸術家達を信じるな」といい、「実験から開始して、それによって理論を検証すること」が、一般法則をたてるためには重要であると主張する。すなわち、自然界の法則性を明らかにしていくとは、自然を観察し、認識を深め、それを客観的な理論に発展させていくことであるとし、その理論を絶えず実践と統一的にとらえることの重要性を強調しているのである。

 レオナルドは、手稿に書かれていることのすべてにわたって実験をしたり、実際にものをつくりあげたわけではないが、コペルニクスやガリレイが登場する以前に前述のような点を主張した。まさに近代科学を準備した「万能の人」というのも当然の評価であろう。

[雀部 晶]

『J・ワッサーマン解説、三神弘彦訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1968・美術出版社)』『下村寅太郎・田中英道解説『世界美術全集5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1977・集英社)』『L・H・ハイデンライヒ著、生田圓訳『アート・イン・コンテクスト3 レオナルド/最後の晩餐』(1979・みすず書房)』『K・キール、C・ペドレッティ編、清水純一・萬年甫訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図』(1982・岩波書店)』『L・C・アラーノ解説、三神弘彦訳『レオナルド素描集成』(1984・みすず書房)』『C・ペドレッティ解説、裾分一弘他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの素描 自然の研究』(1985・岩波書店)』『C・ペドレッティ解説、裾分一弘他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集1、2』(1985、1990・岩波書店)』『C・ペドレッティ解説、斎藤泰弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチおよびレオナルド派素描集――ウフィツィ美術館素描版画室蔵』(1986・岩波書店)』『C・ペドレッティ監修、P・トラティ・クーヒル解説、西山重徳訳『レオナルド・ダ・ヴィンチおよびレオナルド派素描集――在米コレクション』(1997・岩波書店)』『下村寅太郎著『思想学説全書8 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1974・勁草書房)』『G・ヴァザーリ著、裾分一弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝』(1974・岩崎美術社)』『K・クラーク著、加茂儀一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1974/第2版、大河内賢治・丸山修吉訳・1981・法政大学出版局)』『ヴァレリー著、菅野昭正・佐藤正彰他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』(1975/増補版・1978・筑摩書房)』『西村暢夫他訳『レオナルド・ダ・ビンチの童話』(1975・小学館)』『裾分一弘・在里寛司著『レオナルドと絵画』(1977・岩崎美術社)』『岩井寛・森本岩太郎著『レオナルドと解剖』(1977・岩崎美術社)』『上平貢著『レオナルドと彫刻』(1977・岩崎美術社)』『M・ブリヨン他著、佐々木英也他訳『世界伝記双書5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1983・小学館)』『裾分一弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチ――手稿による自伝』(1983・中央公論美術出版)』『加茂儀一著『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝――自然探究と創造の生涯』(1984・小学館)』『加藤朝鳥訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論』改訂版(1996・北宋社)』『久保尋二著『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1999・平凡社)』『シャーウィン・B・ヌーランド著、菱川英一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(2003・岩波書店)』『C・ペドレッティ著、日高健一郎訳『建築家レオナルド』新装版・全2巻(2006・学芸図書)』『杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』全2冊(岩波文庫)』『田中英道著『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』(講談社学術文庫)』



レオナルド・ダ・ビンチ(年譜)
れおなるどだびんちねんぷ

1452 4月15日午前3時ビンチ村に生まれる(祖父アントニオの日記による)
1466 この前後、父とともにフィレンツェに移住。ベロッキオの工房に入る
1472 フィレンツェの画家組合(聖ルカのギルド)に登録。この年か翌年、ベロッキオの『キリストの洗礼』左側天使、および『受胎告知』(ウフィツィ美術館)を描く
1473 8月5日もっとも早い日付の入った風景画の素描(ウフィツィ)
1474 『ジネブラ・デ・ベンチの肖像』制作
1478 フィレンツェ市庁内サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇制作を委嘱される
1481 3月サン・ドナート・ア・スコペート修道院の主祭壇画(未完の『三博士の礼拝』)制作を委嘱される。この年までに『聖ヒエロニムス』制作
1482 ミラノに移り、ルドビコ・スフォルツァに仕える
1483 サン・フランチェスコ教会無原罪懐胎礼拝堂祭壇画『岩窟の聖母』(ルーブル美術館)制作を委嘱される
1487 ミラノ大聖堂の円屋根のために多数の設計図を準備し、木製モデルをつくる
1488 都市計画に関する構想を練る
1489 人体や馬の解剖学的研究
1490 1月13日ミラノの当主ジャン・ガレアツォ・スフォルツァとナポリ王の孫娘の結婚式に際しスフォルツァ城で行われた祝祭劇『天国』で、機械仕掛けの舞台装置や衣装をつくる
1492 7月10日水に関する論文を書き始める
1494 河川工事の設計監督に従事
1496 数学者ルカ・パチオーリと親交を結ぶ
1498 2月『最後の晩餐』いちおう完成。スフォルツァ城アッシ広間の装飾に従事
1499 10月6日フランス軍ミラノ占領。年末、あるいは翌年早々フィレンツェに帰る
1500 2月マントバにあって、イサベラ・デステの肖像素描を描く。4月ベネチアに立ち寄り、フィレンツェに帰る
1501 春サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂祭壇画のための画稿『聖アンナと聖母子』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)公開
1502 7月以降約8か月間、チェーザレ・ボルジャの軍事土木技師として従軍
1503 3月フィレンツェ帰着。10月フィレンツェ評議会からパラッツォ・ベッキオ内の大壁画『アンギアリの戦い』制作の依頼を受ける。このころ『モナ・リザ』制作開始
1504 1月25日ミケランジェロの『ダビデ像』の設置場所を決める委員会に出席。7月9日父ピエロ、80歳で死去
1505 3月14日~4月15日鳥の飛翔に関する手稿。6月6日『アンギアリの戦い』のためのカルトンが悪天候によってちぎれかかる。そして、壁画制作段階での技術的失敗のため、秋には完成を断念
1506 6月1日ミラノに向けて出発
1507 5月ミラノにおいて、フランスのルイ12世の宮廷画家兼技術家に任命される。9月フィレンツェに戻る
1508 7月ミラノに移る
1509 5月ミラノとコモ湖を結ぶサン・クリストールフォロ運河工事に従事
1510 このころ解剖学の研究に従事。解剖学者マルカントニオ・デッラ・トッレと親交を結ぶ。この年の冬に全解剖を終了したとの自筆記録がある
1511 1月アルプス旅行
1513 9月24日ローマに出発。ベルベデーレ宮に住み、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチの庇護を受ける。数学や科学の研究に専念
1515 12月14日ボローニャで教皇レオ10世と新フランス王フランソア1世会見。その際レオナルドも出席
1516 3月パトロンのジュリアーノ没。秋にはフランソア1世の招きでフランスに赴く。アンボアーズ城内に住む
1517 5月アンボアーズ城近くのクルー城館に移り住む。10月10日アラゴンのルイジ・アラゴーナ枢機卿一行がレオナルドを訪問。『洗礼者聖ヨハネ』など晩年の作品を見たこと、レオナルドの左半身がすでに麻痺し、年齢より老けてみえたことなどの記録が残っている
1518 フランソア1世のための建築計画に関与。6月19日アンボアーズの宮廷で、ロレンツォ・デ・メディチの結婚式のため、1490年に彼がデザインした『天国』再演さる
1519 4月23日クルー城で遺言状を口述。5月2日死去。8月12日アンボアーズのサン・フロランタン聖堂において葬儀執行

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レオナルド・ダ・ビンチ」の意味・わかりやすい解説

レオナルド・ダ・ビンチ
Leonardo da Vinci

[生]1452.4.15. イタリア,ビンチ
[没]1519.5.2. フランス,クルー
イタリアの画家,彫刻家,建築家,科学者。フィレンツェのアンドレア・デル・ベロッキオに師事し,1472年に画家組合に登録。1482年からミラノの宮廷で画家,彫刻家,建築家,兵器の技術者として活躍。1499年フランス軍のミラノ占領により居を移し,マントバ,ベネチア,フィレンツェに滞在したが,1506年に再びミラノに戻り,科学的研究や運河の構築計画などを試みた。1513年に教皇レオ10世に招かれてローマに滞在。1516年フランス王フランソア1世の招きでアンボアーズ近郊のクルー城に赴き,同地で没した。芸術と科学の合致を目指したルネサンスの「万能の人」であり,ルネサンス美術の完成者,また晩年は解剖学,機械設計の研究者として知られた。おもな作品は『最後の晩餐』(1495~98,サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の修道院食堂),『モナ・リザ』(1503~06,ルーブル美術館)など。

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