15~18世紀にフィレンツェを中心に栄えたイタリアの財閥。ルネサンス芸術の保護者の家系としても知られる。メディチ家繁栄の基礎を置いたのはジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチGiovanni di Bicci de'Mediciで,彼は銀行を興し,教皇庁との商取引をてこにこれを一流に育てた。しかしメディチ家がフィレンツェに君臨するのは次のコジモ(C.de'メディチ)の代で,コジモはアビニョン,ロンドンなど国外に多くの支店を出し,政治状況を積極的に利用して莫大な富を築き,メディチ銀行はヨーロッパ屈指の大銀行に成長した。同時にコジモはフィレンツェの事実上の支配者にのし上がり,隠然たる力を振るった。その子ピエロは短命であったが,コジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコ(L.de'メディチ)は指導者にふさわしい人物で,内外で実質的に君主と目され,メディチ家の権勢と栄華は頂点をきわめる。事実この時代,イタリア半島の平和は彼の外交手腕によって維持されたといわれる。また祖父コジモと彼がルネサンス芸術・文化の保護者として果たした役割もきわめて大きい。しかし,ロレンツォは銀行の経営には無関心で,一家の繁栄の経済的基盤は揺らぎ始めていた。
その長男ピエロ2世Piero Ⅱ de'M.は政治家の資質と人間的魅力をも欠く人物であった。また当時はサボナローラの舌鋒が市民間に反メディチの空気をあおり立てていた時期でもあり,ナポリ征服に南下したフランス王シャルル8世に対するピエロの卑屈な態度に憤激した市民は,1494年11月,メディチ家を追放する。1512年,カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の後ろ楯により,ロレンツォの次男で枢機卿のジョバンニGiovanni de' M.がフィレンツェに入城,メディチ家の復帰は成るが,このためフィレンツェは長らくスペインの勢力下に置かれる。翌13年,彼が教皇レオ10世となったため,追放されたピエロの子ロレンツォ2世Lorenzo II de'M.が,次いでイル・マニフィコの甥で枢機卿のジュリオGiulio de' M.が当主の座に就くが,この地位は親メディチの寡頭市民グループに支えられた。なおこのジュリオの尽力でフランス王家に嫁ぎ,妃となったカトリーヌ・ド・メディシスと,後代,アンリ4世妃となったマリアという,2人のフランス王妃をメディチ家は出している。ジュリオがクレメンス7世として教皇位に就くと,ロレンツォの子アレッサンドロAlessandro de' M.に家督が譲られる。暴君で残忍な彼は,27年市を放逐されるが,またもやカール5世の後押しで復帰し,32年フィレンツェ公に叙される。こうしてメディチ家は名実ともにフィレンツェのシニョーレ(シニョリーア制)となり,伝統ある共和制は終息する。しかし37年,アレッサンドロは一族のロレンツィーノの手で暗殺され,コジモの家系のメディチ家は断絶し,公位はコジモの弟ロレンツォの家系に移る。
2代目のフィレンツェ公コジモ1世Cosimo Ⅰ de' M.は猜疑心が強く恐怖政治を行うが,卓抜な政治力を発揮してスペインからの独立と領土拡大に成功し,行政・司法機構の統一・整備など近代国家づくりを強力に推進する。商才にも恵まれ,メディチ銀行の経営と公国の財政を立て直し,他方バザーリ,チェリーニなどおおぜいの芸術家を保護した。69年,公国はトスカナ大公国に昇格するが,後継者フランチェスコ1世Francesco Ⅰ de' M.は化学・物理にしか興味がなく,その治世下で財政は乱れ,国力は著しく低下する。次代のフェルディナンド1世Ferdinando Ⅰ de' M.は進歩的政策をとり,税制改革,農業商業の振興に努め,大公国は自由と活気を取り戻し,その存在はヨーロッパ列強の一つと認められた。しかし,これはメディチ家の栄光の最後の輝きであった。以降,この一家には為政者としての能力と責任感の欠如した,偏執狂的性格の持主で,むしろ科学に強い興味を示す人物が多い。コジモ2世は政務を放擲し,この代でメディチ銀行も閉鎖をみる。次代のフェルディナンド2世,その子コジモ3世も政治に無関心で,国庫を濫費,保守反動の支配を許したし,また最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネGian Gastone de' M.の桁はずれの奇行はまさに末期的状況の象徴であった。1737年,かれは世継ぎを残さずに死去し,メディチ家は断絶する。
執筆者:在里 寛司
メディチ家第2代当主コジモはニッコロ・ニッコリやポッジョ・ブラッチョリーニらの収書活動に援助を与え,また彼らの協力を得てギリシア・ローマ古典や教父著作の古写本を自らも買い集めたが,ニッコリが死ぬと,彼が遺贈した収書を基に自らの蔵書の一部も加えて1447年サン・マルコ修道院内に図書室を開設し,一般に公開して利用に供した。収書熱は息子のピエロをはじめとする後代にも引き継がれ,とくに第3代当主ロレンツォはラスカリスに委嘱して旧ビザンティン帝国領内に散在するギリシア古典写本を系統的に集めさせた。こうして収集された写本のうち貴重なものは,サン・マルコ図書室の蔵書とは別に非公開の蔵書として自邸内にとどめられたが,フィチーノやポリツィアーノらメディチ家出入りの人文主義者には自由に貸し与えられ,古典研究に益した。94年メディチ家の支配体制が崩壊すると,これら2系統の蔵書群はサン・マルコ修道院にまとめて置かれ,一部は略奪に遭ったものの,ロレンツォの次男である教皇レオ10世の努力でかろうじて散逸を免れ,次いで同じくメディチ家出身の教皇クレメンス7世は同家ゆかりのサン・ロレンツォ修道院内にこの貴重な蔵書群を収める図書館をミケランジェロに設計させた。図書館はトスカナ大公コジモ1世の代になって1571年に完成・公開された。
執筆者:片山 英男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア、フィレンツェの名家で、ルネサンスの学芸の保護者。この家系の名は13世紀後半の資料にもみられるが、メディチ銀行を創立し、後代の隆盛の基盤を築いたのはジョバンニ・ディ・ビッチGiovanni di Bicci de' Medici(1360ころ―1429)である。その子コジモCosimo de' M.(1389―1464)は、事業を拡張、ヨーロッパ各地に支店を出し、巨万の富を蓄えると同時に土地へ投資し、財政の安定を図った。政治的には表だつことを避け、財力と新興大商人層内での信望を武器に支持人脈網を確立し、フィレンツェ共和国内で隠然たる影響力を行使した。この寡頭体制が、後年への同家の安泰の後ろ盾であった。1433年に共和国より追放されたコジモが翌年早々に帰国できたのも、この布石ゆえである。ミラノ、ナポリとの友好関係を保つのが彼の一貫した外交方針で、共和国の安定と繁栄に大いに貢献し、死後「祖国の父」の称号を贈られた。
コジモの孫ロレンツォLorenzo de' M.(1449―1492)は、市民ながら若年より他国の君公とも対等に交わり、フィレンツェでも無冠の王のごとく君臨した。祖父の外交方針を継承し、イタリア半島の諸勢力の均衡に努めた。賢明かつ豪胆で、率直な性格と行動ゆえ「イル・マニフィコil Magnifico(偉大なる者)」とあだ名されたが、その資質は、1478年同家を危機に陥れたパッツィ家の陰謀への対処にも発揮された。また、コジモ同様、芸術を保護し、自らも文学作品を残している。しかしロレンツォは経営の才能に乏しく、当時すでにメディチ家の財政は揺らぎ始めていた。彼の長男ピエロPiero de' M.(1472―1503)は凡愚で、南下したフランスのシャルル8世に屈したため、共和国より追放された(1494)。1512年にメディチ家は帰国を許されたが、1527年にもまた追われている。ただし、この間同家は2人の教皇、レオ10世(在位1513~1521)およびクレメンス7世(在位1523~1534)を輩出、フランス王家と婚姻関係を結んだ(アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシス、アンリ4世の妃マリ・ド・メディシス)。
メディチ家のフィレンツェ再復帰がかなうのは1530年で、このときは皇帝カール5世と教皇軍の後押しによった。1532年、アレッサンドロAlessandro de' M.(1512―1537)がフィレンツェ公に叙せられ、メディチ家は名実ともに領主となった。
次代のコジモ1世Cosimo Ⅰ(1519―1574)は傍系の出身であったが、優れた政治家で、官僚の養成、統治機構の整備など公国の近代化に尽力し、1569年、トスカナ大公位についた。しかし彼以後の大公は、外交に優れた手腕を発揮して農業、商業の振興に努めたフェルディナンド1世Ferdinando Ⅰ(1549―1609)を除くと、おおむね凡庸で、コジモ2世Cosimo Ⅱ(1590―1621)はメディチ銀行を閉鎖した。相続人を残さなかった奇行の主ジャン・ガストーネGian Gastone de' M.(1671―1737)の死により、トスカナ大公=メディチ家は絶える。
[在里寛司]
『中田耕治著『メディチ家の人びと――ルネサンスの栄光と頽廃』『メディチ家の滅亡』(河出文庫)』▽『C・ヒッバート著、遠藤利国訳『メディチ家――その勃興と没落』(1984・リブロポート)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
フィレンツェの大金融業者,商人,のち君主。フィレンツェ近郊のムジェッロの出身。商業で富を得て,13世紀末頃フィレンツェに移住。まずシルヴェストロ(1311~88)がチォンピの乱の頃,小市民の側に立って政治に活躍。ついで別家系のジョヴァンニ(1360~1429)が金融業で富を得て,旧財閥に対抗して政界に進出し,メディチ家興隆の基礎を築いた。その子コージモとコージモの孫ロレンツォは市政に君臨し,フィレンツェの黄金時代を現出した。ロレンツォの子ピエーロ(1472~1503)のときに市から一時追放されたが,1512年ピエーロの子ロレンツォ2世(1492~1519)のときに復帰。27年に共和政が成立して再び追放されたが,31年ロレンツォ2世の子アレッサンドロ(1510~37)がカール5世の支持を得て復帰し,フィレンツェ公となった。彼の死後,コージモ(イル・ヴェッキオ)の弟の系統のコージモ1世(1519~74)が公位を継ぎ,69年にトスカーナ大公となる。18世紀半ばジャン・ガストーネ(1671~1737)で同家は断絶した。その間,教皇を二人(クレメンス7世とレオ10世),フランス王妃二人(アンリ2世妃カトリーヌとアンリ4世妃マリ)を輩出した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ルネサンス期に他の諸分野において,イタリア人の活躍がどれほどいちじるしかったかを考えると,音楽の創作の不振の理由を説明するのは困難である。1500年前後のイタリア人の創作としては,マントバ(ゴンザーガ家),フェラーラ(エステ家),フィレンツェ(メディチ家)における,フロットラ(世俗歌)やカント・カルナシャレスコ(謝肉祭の歌)などの創作が目だっている。01年にベネチアの印刷業者のペトルッチが《オデカトン(百の歌の意)》と名づけて出版した多声音楽の曲集は,印刷譜の最初のものとされている。…
…イタリアのフィレンツェにある美術館。建物はメディチ家のコジモ1世がトスカナ大公国の主要な13の政庁を統合する庁舎の目的で1560年にバザーリに命じて着工させたもので,アルノ川を越えてパラッツォ・ピッティに至る歩廊も加えて,80年に建築家で彫刻家のブオンタレンティBernardo Buontalenti(1536‐1608)らが完成。翌年にフランチェスコ1世は,それまでにメディチ家が収集した美術品を展示するために,3階建ての最上階を美術館にした。…
…アリストテレスも,寡頭制を単に少数者による支配であるとする見解をしりぞけて,富裕者が支配権を握っている場合を寡頭制と呼んでいる。歴史的には,ルネサンス期のフィレンツェにおけるメディチ家の支配が名高いが,現実政治において,単一の支配者以外のすべての人々が政治権力から排除されることや,逆に,政治社会の構成員すべてが,政治決定に実質的に関与することはありえないとするならば,人類史上ほとんどすべての政治体制は寡頭制であるということもできよう。また,ドイツの社会学者ミヘルスRobert Michels(1876‐1936)は,国家に限らず,会社,政党など,あらゆる組織において,権力が少数者の手に集中していく傾向を描き出し,これを〈少数支配の鉄則〉と呼んでいる。…
…同時に誇張した儀礼的賛辞と,矜持(きようじ)と卑屈が微妙に混在する姿勢が彼らの多くの作品を特徴づけることにもなる。ルネサンス期イタリアの名家も文人庇護で知られ,ポリツィアーノやベンボを擁したメディチ家,アリオストやタッソを庇護したエステ家の例は,イギリス,フランス,スペイン,ポルトガルの王侯貴族が見習うところとなった。しかしこれらは17世紀フランスのルイ14世の宮廷に比べれば,擬似的宮廷にすぎない。…
…イタリア,フィレンツェの名門に生まれた法律家,政治家,歴史家。その一生は,メディチ家を中心としてめまぐるしく変わった,当時の政情によって彩られている。1494年のメディチ家追放後の共和政下にあって,彼は体制に批判的なグループの後押しで政界に登場した。…
…赤く長いガウンと帽子をつけた医師の服装で,手には薬箱や外科用器具,乳鉢,乳棒などを持つ。メディチ家(メディチは医師の意)の守護聖人で,同家にはコジモ(コスマスのイタリア語名)を名のるものが多く,同家ゆかりの美術作品にもしばしば登場する。また,フランスで14世紀初めに公認された理髪外科医の同業者組合は,〈サン・コームSaint‐Côme(聖コスマス)〉と名のった(大革命期に廃止)。…
…なかでもビスコンティ家は1329年以降皇帝代官の称号を得て,15世紀初頭には北イタリアを統一する勢いを示した。一方,1434年にフィレンツェの実権を握ったメディチ家は,コムーネの伝統が強固であるために,シニョーレを名のらず,陰の支配者にとどまった。また,都市貴族(大商人)層の強固な支配が確立していたベネチアでは,ついにシニョリーア制が成立しなかった。…
…これ以降,トスカナの歴史はフィレンツェの歴史と重なり合うことになる。
[メディチ家の支配]
15世紀はルネサンスの世紀であった。1434年にフィレンツェの事実上の支配者となったメディチ家のもとで,トスカナはルネサンス文化の中心として,イタリアの内外に大きな影響を及ぼした。…
…1569年から1860年まで,イタリア中部トスカナ地方にあった大公国。その歴史は1569年,メディチ家のコジモ1世が大公に叙された年に始まる。彼は行政・法律面で統一のとれた国家の建設に努力し,ついでフェルディナンド1世の下で税制改革が行われ,商業・農業が発展して,大公国は繁栄するが,以後国力は衰微の一途をたどった。…
…新しい教会やパラッツォの建築が行われ,中世以来の細い曲りくねった道が改修され,都市景観のうえでも大きな変化が生じた。1492年にロレンツォが死去し,94年にフランス王シャルル8世が南下すると,市民はメディチ家を追放しサボナローラを精神的指導者とする共和政が成立した。しかしサボナローラは98年に処刑され,都市政治はきわめて不安定となった。…
…フィレンツェのパラッツォ・ピッティPalazzo Pittiに付属する庭園。16世紀半ば,このパラッツォ(館)がメディチ家のものとなったとき,コジモ1世の妃エレオノーラがトリボロ,アンマナーティらに命じて造らせた。その後ブオンタレンティらも協力したが,主庭園に広大な叢林(ボスコ)が付属する現在見るような庭のすがたが完成したのは17世紀に入ってのことである。…
…それとともに彼は政治の問題を外交,軍事の方向から考察するようになる。1512年共和国がメディチ家によって打倒されると,マキアベリは危険人物として職を追われ,フィレンツェ郊外に隠棲を余儀なくされた。有名な《君主論》(1532)をはじめ,《リウィウス論》(1531),《マンドラゴラ》(1524)などの作品はこの不遇の時期に執筆された。…
※「メディチ家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新