越生郷(読み)おごせごう

日本歴史地名大系 「越生郷」の解説

越生郷
おごせごう

入間川支流の越辺おつべ川上流域、現越生町を中心に、毛呂山もろやま町、比企郡都幾川ときがわ村・鳩山はとやま町の一部を含む一帯に比定される。児玉党に属する越生氏の本領で、郷内に是永これなが名・恒弘つねひろ名・則次のりつぐ名などがあった。

児玉党系図(諸家系図纂)によれば、越生氏の祖は入西三郎大夫資行の四男有行が越生新太夫を名乗ったのに始まり、有行のあと有弘―有高―有直―長経―経高と継承された。文治五年(一一八九)源頼朝の奥州藤原氏追討の際の鎌倉勢のなかに「小越右馬允有弘」がみえ(「吾妻鏡」同年七月一九日条)、建久元年(一一九〇)頼朝が入京する際の行列の随兵中に小越四郎(有平)・小越右馬允(有弘)がみえるなど(同書同年一一月七日条)、越生氏は鎌倉幕府御家人であった。承元二年(一二〇八)三月一三日の関東下知状写(報恩寺年譜)に「越生郷」とみえ、当郷のほか武蔵国吾那あがな春原はるはら広瀬ひろせ(現狭山市)地頭職を越生有弘から同有高への譲与が安堵されており、越生郷と吾那郷、春原庄広瀬郷を領していた。また有高は但馬国日置へき(現兵庫県日高町)・播磨国賀古かこ(現同県加古川市)などを与えられた(貞応元年七月七日「関東下知状」仁和寺文書、宝治元年一〇月一日「藤原頼嗣袖判下文写」報恩寺年譜など)。なお日置郷は文和三年(一三五四)に越生太郎左衛門から没収されて三方忠時に与えられ(同年七月二八日「足利尊氏袖判下文」尊経閣文庫文書)、越生氏の支配から離れたが、賀古庄には越生氏庶流が居住し、戦国期まで活動した(年未詳一〇月一〇日「浦上政宗書状案」鶴林寺文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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