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足利満隆 あしかがみつたか

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利満隆
あしかがみつたか

[生]?
[没]応永24(1417).1.10. 鎌倉
室町時代前期の武将。氏満の子。応永 23 (1416) 年上杉禅秀にくみして,鎌倉公方足利持氏を襲撃して逃走させ関東の主となったが,翌年持氏軍に敗れ,自殺。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

足利満隆 あしかが-みつたか

?-1417 室町時代の武将。
足利氏満の子。甥(おい)の4代鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)と対立し,応永23年養子の足利持仲,上杉氏憲(うじのり)(禅秀)とともに挙兵(上杉禅秀の乱)。一時は鎌倉を制圧したが,幕府軍の支援をうけた持氏の反撃に敗れ,24年1月10日自害した。通称は新御堂殿。

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朝日日本歴史人物事典の解説

足利満隆

没年:応永24.1.10(1417.1.27)
生年:生年不詳
室町時代の武将。鎌倉公方足利氏満の子,満兼の弟。右衛門督。鎌倉の新御堂谷に住み新御堂殿と呼ばれる。甥に当たる鎌倉公方足利持氏と反目し,犬懸上杉氏憲(禅秀)と共に持氏を討つ計画を進め,応永23(1416)年10月に鎌倉で決起して持氏を追い払った。こうして一時は鎌倉の主となるが,まもなく持氏を支持する幕府軍に攻め込まれ,翌24年1月,氏憲と共に鎌倉雪ノ下で自殺した。

(山田邦明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利満隆
あしかがみつたか
(?―1417)

室町中期の武将。鎌倉公方(くぼう)第2代足利氏満(うじみつ)の子。新御堂殿(しんみどうどの)とも号した。甥(おい)にあたる鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と対立し、1416年(応永23)10月2日養嗣子(ようしし)持仲(もちなか)(持氏の弟)や前関東管領(かんれい)上杉氏憲(うじのり)(禅秀(ぜんしゅう))また将軍足利義持(よしもち)の弟義嗣(よしつぐ)らと謀って、持氏の邸宅を急襲して乱を起こした(上杉禅秀の乱)。持氏や関東管領上杉憲基(のりもと)を逐(お)い、いったんは鎌倉を制圧したが、まもなく幕府の支援を受けて反撃に転じた持氏の軍勢に追い詰められ、翌1417年(応永24)正月10日、鎌倉の鶴岡八幡宮別当(つるがおかはちまんぐうべっとう)快尊(かいそん)(氏憲の子)の雪下坊(ゆきのしたのぼう)で、持仲、氏憲らとともに自害した。[田代 脩]

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