(江田郁夫)
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南北朝時代の武将。足利基氏の子。鎌倉公方(くぼう)2代。幼名は金王丸。1369年(正平24・応安2)元服,将軍義満の偏諱(へんき)を受けて氏満と称す。従五位下,左馬頭,のち従四位下,左兵衛督に進む。68年の武蔵河越合戦と80年(天授6・康暦2)以降の小山義政・若犬丸の乱を鎮圧し,東国における鎌倉公方足利氏の支配権を確立した。またその間の79年管領細川頼之排斥事件(康暦の政変)に関係し,将軍義満にとって代わろうとしたが,時の関東管領上杉憲春の諫死で思いとどまった。95年義満から陸奥,出羽の分国支配を認められた。
執筆者:佐藤 博信
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南北朝~室町初期の武将。鎌倉公方(くぼう)第2代。幼名金王丸。基氏(もとうじ)の子。1367年(正平22・貞治6)基氏の後を継ぎ9歳で鎌倉公方となる。1369年元服して氏満と称す。1379年(天授5・康暦1)氏満は将軍義満(よしみつ)にかわって将軍となろうと画策したが、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲春(うえすぎのりはる)の諫死(かんし)により、その野心を遂げることができなかった。氏満時代は北関東において連続的に戦乱が続いたが、北関東の豪族層を圧し、1392年(元中9・明徳3)には陸奥(むつ)、出羽(でわ)両国も鎌倉府の管轄下に入った。応永(おうえい)5年11月4日没。
[伊藤喜良]
1359~98.11.4
南北朝期~室町中期の武将。2代鎌倉公方(くぼう)。初代基氏の子。従四位下左兵衛督。幼名金王(こんのう)丸。法名永安寺璧山道全。1367年(貞治6・正平22)父の死により9歳で鎌倉公方となる。その直後,鎌倉府の武蔵国支配に不満をもつ河越・高坂両氏を中心とした武州平(へい)一揆の反乱を鎮圧。79年(康暦元・天授5)には京都の政変に乗じて将軍足利義満の打倒をはかるが,関東管領上杉憲春の諫死(かんし)で思いとどまる。その後は関東有数の大豪族小山(おやま)義政・若犬丸父子2代にわたる反乱鎮圧に努めた。92年(明徳3・元中9)には幕府から陸奥・出羽両国の管轄権を与えられた。
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…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…
…氏綱の後を継いだ基綱は80年(天授6∥康暦2)下野守護小山義政と対立して殺された。鎌倉公方足利氏満はただちに関東の諸将に義政追討を命じ,義政は鷲城,祇園城,粕尾城などに拠って抗戦したが,82年(弘和2∥永徳2)自害し,ここに名族小山氏は断絶した。公方氏満は名族の断絶を惜しみ,同族の結城基光の次男泰朝をして再興させた。…
※「足利氏満」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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