室町中期の武将。上杉(犬懸)朝宗の子。官途は右衛門佐。出家して禅秀と称した。1404年(応永11)の伊達政宗の乱に際しては,鎌倉府軍を率いてその鎮圧に活躍した。その後,鎌倉公方(くぼう)足利持氏のもとで関東管領を務めたが,積年の山内上杉氏憲基との確執,および家臣小幡氏の所領没収をめぐる持氏との対立から,15年管領職を辞した。16年持氏の叔父満隆を奉じて持氏に反旗を翻し,千葉,岩松,那須らの武将をはじめ,中小武士層の反持氏勢力を結集して一時鎌倉を占拠した。しかし,幕府が氏憲の動きに危惧をいだき駿河に逃れた持氏を援助したため,形勢は逆転し,各地での戦いに敗れて,鎌倉雪ノ下で自害してはてた。
→上杉禅秀の乱
執筆者:佐藤 博信
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(山田邦明)
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?~1417.1.10
室町時代の武将。関東管領,上総・武蔵両国守護。犬懸(いぬかけ)上杉氏。入道して禅秀(ぜんしゅう)。1411年(応永18)関東管領となる。15年鎌倉公方足利持氏(もちうじ)が犬懸上杉氏の被官の所領を没収する事件がおき,これを不満として管領を辞職。さらに持氏が山内上杉憲基(のりもと)を後任としたため,持氏・憲基に対する反感を強めた。16年10月同じ反持氏の足利満隆(みつたか)(持氏の叔父)を擁して持氏らを鎌倉から追い,いったんは政権の奪取に成功。しかし幕府が持氏らを支持して越後・駿河などの軍勢を派遣したためしだいに圧迫され,17年正月満隆とともに鎌倉で自殺。
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…1416年(応永23)10月より翌年1月まで,上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に反して起こした室町時代前期の内乱。1416年10月前管領上杉氏憲は持氏の叔父満隆を奉じて持氏邸を夜襲した。…
…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…
※「上杉氏憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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