室町中期の武将。足利満兼の子。鎌倉公方(くぼう)4代。幼名は幸王丸。1409年(応永16)満兼の死を受けて鎌倉公方となる。翌年元服して将軍義持の偏諱(へんき)を得て持氏と称す。16年前関東管領上杉禅秀の乱にあい一時鎌倉を逃れたが,禅秀の動きに不安を感じた幕府の援助を得て反乱を鎮め再び鎌倉に戻った。その後,禅秀の残党の弾圧に奔走し,公方権力の専制化を強めた。しかし,それに対する豪族層や中小武士層の反発も高まり,その支配の強化も容易ではなかった。その一方で,幕府との対抗関係もみられ,しばしば衝突を招いた。持氏は,京都の改元に従わず旧元号を使用し続けたり,京都方の所領を押領したりした。義持の跡を継いだ将軍義教の強圧的な態度と持氏の反幕意識は,一時的な妥協では解決しえなかった。34年(永享6)には,持氏は大勝金剛尊像を鶴岡八幡宮に造立し,かつ血書願文を奉納して将軍義教と関東の反持氏勢力の打倒を祈願した。38年持氏は,子義久の元服式を将軍の偏諱を得ず独自に鶴岡八幡宮で強行したことで,幕府との協調を説く関東管領上杉憲実(のりざね)とも対立した。持氏がその後憲実打倒の軍を起こしたことで関東は内乱状態となり,幕府はこの機をとらえて憲実を援助し兵を関東に進めた(永享の乱)。持氏は各地で敗れ,武蔵称名寺で謹慎したが,義教は憲実の持氏助命の願いを無視して鎌倉の永安寺で自害せしめた。その子義久も,鎌倉の報国寺で自害した。
執筆者:佐藤 博信
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室町中期の武将。鎌倉公方(くぼう)第3代足利満兼(みつかね)の子。幼名幸王丸(こうおうまる)。1409年(応永16)父満兼の後を受けて家督を継ぎ、12歳で第4代鎌倉公方となった。翌1410年元服し、将軍足利義持(よしもち)の一字を与えられて持氏と名のった。1416年上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱では、いったん鎌倉を逃れて駿河(するが)の今川範政(のりまさ)を頼ったが、まもなく幕府の支援を受けて反撃に転じ、翌1417年正月、乱を鎮圧した。その後、独自の支配権を東国に確立しようとして関東諸将の討伐にしばしば出兵したため、幕府との対立をしだいに深めていった。1428年(正長1)に足利義教(よしのり)が将軍となると幕府への対決姿勢をさらに強め、両者の調停を図ろうとした関東管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)は持氏に疎(うと)んじられた。1438年(永享10)長子賢王丸(けんおうまる)の元服に際して将軍の一字をもらう慣例を無視し、それをいさめた憲実を追討しようとした。将軍義教はこれを持氏討伐の絶好の機会ととらえ、諸将に命じて憲実を支援させ、持氏追討の兵を関東に下した。関東の諸将のなかにも持氏に背くものが続出、やがて敗北を悟った持氏は金沢(かねさわ)称名寺(しょうみょうじ)で剃髪(ていはつ)して道継(どうけい)と号し、ついで鎌倉の永安寺(ようあんじ)に入り謹慎の意を表した。しかし将軍義教はこれを許さず、翌1439年(永享11)2月10日、持氏は幕命を受けた上杉憲実らに永安寺を包囲され42歳で自害。この事件を永享(えいきょう)の乱という。法名は長春院楊山道継。
[田代 脩]
(江田郁夫)
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1398~1439.2.10
4代鎌倉公方(くぼう)。3代満兼の子。従三位左兵衛督。幼名幸王丸。法名長春院楊山道継。1416年(応永23)上杉禅秀の乱で一時鎌倉をのがれたが幕府の援助で鎮圧,以後政治基盤の強化をはかる。23年,勢力増大を恐れた幕府と全面対決の危機を招くが,持氏が将軍足利義持に謝罪の誓書を送り和睦。しかし足利義教(よしのり)が将軍になると関係は再び悪化。38年(永享10)持氏が,幕府と結ぶ関東管領上杉憲実(のりざね)を追討するため出陣すると,幕府は持氏討伐をはかり,永享の乱がはじまった。幕府軍と憲実軍の包囲,さらに三浦時高らの裏切りによって敗れ,武蔵国金沢の称名寺で出家,翌年鎌倉永安寺で自害。
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…1416年(応永23)10月より翌年1月まで,上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に反して起こした室町時代前期の内乱。1416年10月前管領上杉氏憲は持氏の叔父満隆を奉じて持氏邸を夜襲した。…
…1419年(応永26)憲基の跡を受けて関東管領となった。上杉禅秀の乱以後,鎌倉公方(くぼう)足利持氏が幕府からの自立と公方権力の専制化をはかったのに対して,憲実は幕府との協調と妥協を主張したので,両者の間でしばし対立が生じた。とくに36年(永享8)持氏が信濃の内紛に介入しようとしたことに憲実が反対したこと,また38年持氏が慣例を無視して子義久の元服式を鶴岡八幡宮で強行したことなどで,両者の対立は深まった。…
…1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。…
…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…
…
[室町時代]
義政の乱後,15世紀の関東はつぎつぎに大事件が勃発する。1416年(応永23)前関東管領上杉禅秀が,鎌倉公方足利持氏,関東管領山内上杉憲基に対して反乱を起こし,翌年禅秀側が破れて鎌倉雪ノ下で自害した。禅秀方には,那須資之,宇都宮左衛門佐,薬師寺,佐野左馬助,小山等の諸将,持氏方には宇都宮持綱,長沼義秀らがいた。…
…1440年(永享12)3月,下総の結城氏朝が鎌倉公方足利持氏の遺子春王丸・安王丸を奉じて幕府に抗した戦い。持氏は永享の乱に敗れ前年2月に鎌倉永安寺で自殺したが,この持氏の死後も従来から続いている東国の混乱は鎮静化しなかった。…
※「足利持氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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