足利郡
あしかがぐん
下野国南西部に位置し、安蘇郡の西、渡良瀬川北岸にある。郡域は現在の足利市の北部約三分の二、佐野市西方の一部、現群馬県桐生市の東端の一部を占める。
「和名抄」東急本国郡部は「阿志加々」と訓を付す。当郡内の郷として高山寺本では大窪・田部・堤田・土師の四郷を記し、東急本では余戸・駅家の二郷を加える。このうち大窪(現足利市大久保付近)・土師(現同市葉鹿付近)・駅家(現同市中心部)の各郷の位置については諸説ほぼ一致している。古代の郡域は当時の渡良瀬川北岸一帯にあたると考えられる。しかし現在の足利市付近の渡良瀬川流路は中世までは現在の矢場川付近にあったとされ、また現在の渡良瀬川を挟んで北岸の足利市域と南岸の足利市田中町付近に同一の方向性をもつ条里遺構が存在したとの指摘もあることから、現在の渡良瀬川北岸を中心として南岸の一部を含んだ地域を古代の郡域と考えてよいであろう。なお安蘇郡との郡界は現在の旗川・才川付近と推測される。郡名の史料上の初見は、大宝三年(七〇三)のものと判断される藤原宮跡出土木簡で「下毛野国足利郡波自可里鮎大贄一古参年十月廿二日」とある。郡衙は足利市中心部と推定されるが、位置は確定されていない。郡司として判明するのは「続日本後紀」承和一二年(八四五)九月二八日条にみえる少領大麻続部嗣吉のみである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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