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徳川綱吉 とくがわ つなよし

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美術人名辞典の解説

徳川綱吉

徳川幕府五代将軍。三代将軍家光の四男。四代将軍家綱の弟。幼名は徳松、院号は常憲院。初め堀田正俊を大老に任じて政務を執り、学問の興隆をはかった。正俊歿後は、実権を側用人柳沢吉保らに委ね、また生類憐れみの令を発した。書を能くし、書風は穏やかな品の良さをみせる。宝永6年(1709)歿、64才。

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デジタル大辞泉の解説

とくがわ‐つなよし〔トクがは‐〕【徳川綱吉】

[1646~1709]江戸幕府第5代将軍。在職1680~1709。家光の四男。治政初期は堀田正俊を登用して文治政治に努めたが、正俊の死後、柳沢吉保を重用し、生類憐(しょうるいあわれ)みの令を発して犬公方(いぬくぼう)とよばれた。また、貨幣改鋳によって政治の混乱を招いた。

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百科事典マイペディアの解説

徳川綱吉【とくがわつなよし】

江戸幕府5代将軍。3代将軍家光の四男。幼名徳松。法号常憲院。母は本庄氏,桂昌院。1661年上野国館林城主,1680年4代将軍兄家綱の死後,将軍を継承。老中堀田正俊を大老にすえ,勘定吟味役を創置して勤務不良の代官を大量処分,また親藩筆頭越後(えちご)高田藩松平家の御家騒動越後騒動)を親裁,同家を取りつぶして譜代層を従わせた。
→関連項目木下順庵元禄時代巡見使昌平坂学問所堆朱楊成堀田正俊柳沢氏湯島聖堂

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川綱吉 とくがわ-つなよし

1646-1709 江戸幕府5代将軍。在職1680-1709。
正保(しょうほ)3年1月8日生まれ。徳川家光の4男。母はお玉の方(桂昌院)。上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)藩主から兄徳川家綱の養子となり,延宝8年将軍職をつぐ。堀田正俊(まさとし)を大老とし,治世不良の大名や不正代官を処分するなど文治政治(天和(てんな)の治)を推進。しかし,その後柳沢吉保(よしやす)らをとりたて,奢侈(しゃし)にふけり,護持院,護国寺などを建立し,幕府の財政を悪化させた。人々をくるしめた生類憐(あわれ)みの令により犬公方(くぼう)と称された。宝永6年1月10日死去。64歳。幼名は徳松。法号は常憲院。
【格言など】生類憐みの令と愛犬令とが民のわずらいになっていることはよく知っているが,(中略)せめてわしの死後三年は続けるよう(家宣への遺言)

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川綱吉

没年:宝永6.1.10(1709.2.19)
生年:正保3.1.8(1646.2.23)
江戸幕府第5代将軍。3代将軍家光とその側室於玉(のち桂昌院)の子。幼名徳松。慶安4(1651)年賄料15万石を賜り,翌承応1(1652)年竹橋に屋敷が完成して江戸城三ノ丸より移徙。2年元服,従三位近衛中将兼右馬頭に叙任され,綱吉と称す。明暦3(1657)年大火により屋敷が類焼し,神田館に移転。寛文1(1661)年10万石を加増されて上野国館林城主となり,参議に任じられた。延宝8(1680)年35歳のとき,兄4代将軍家綱病気のため継嗣となり,従二位権大納言に叙任。同年家綱没後将軍職に就任し,正二位内大臣に叙任された。館林徳川家はいったん子の徳松が相続したが,徳松の江戸城西ノ丸入りとともに消滅し,家臣は幕臣に編入された。将軍となった綱吉は,前代に権勢を振るっていた大老酒井忠清を罷免し,代わって自分の将軍就任を支持してくれた老中堀田正俊を翌天和1(1681)年に大老に任命して政治改革に着手した。 その政治は「天和の治」と呼ばれ,「賞罰厳明」と天領行政の刷新を特色とする。つまり,綱吉は親藩のひとつである越後高田藩主松平光長を改易したのを手始めに,譜代大名と旗本を多数処罰して幕政の主導権を獲得した。さらに堀田正俊を農政の専管者に任命するとともに,総代官の年貢未進の検査,および勘定吟味役の新設を通して世襲代官多数を処罰し,幕府代官の官僚化を進めていった。しかし,堀田正俊は貞享1(1684)年に刺殺されたため,以後は綱吉の館林時代の旧臣である牧野成貞や柳沢吉保を中心とする,いわゆる「側用人政治」が展開された。後期は前期の政治を継承しつつ,生類憐みの令などを通じて将軍専制権力はさらに強化され,また貨幣改鋳や積極的な貿易策によって商品経済への対応を強めた時期でもあった。綱吉は学問好きではあるが,毀誉褒貶甚だしい人であり,その性格がいわゆる「賞罰厳明」を引き起こしたともいえる。

(深井雅海)

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江戸・東京人物辞典の解説

徳川綱吉

1646〜1709(正保3〜宝永6)【五代将軍】評価が分かれる、太平元禄の「犬公方」。 五代将軍(在職1680〜1709)。家光の4男。館林藩主をへて将軍に就任。大老堀田正俊の補佐のもと文治政治をおこなうが、後に側用人柳沢吉保らを重用。生類憐み政策をとり「犬公方」と呼ばれた。急速に成長する江戸経済と財政悪化に対処するため、質の悪い貨幣を大量に流通させた結果、インフレが起こり治世は乱れたが、反面華やかな元禄文化を生んだ。

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわつなよし【徳川綱吉】

1646‐1709(正保3‐宝永6)
江戸幕府5代将軍。3代将軍家光の四男。幼名徳松。生母は本庄氏,桂昌院。1651年(慶安4)父家光の死後,上野国その他で所領15万石を与えられ,61年(寛文1)10万石加増,館林城主となる。64年左大臣鷹司教平女信子と結婚。80年(延宝8)兄4代将軍家綱の死後,5代将軍を継承した。前代末期,幕政は整備された機構を伴って安定した軌道にのっていたが,他面社会の変質期に入って全領主的支配の弛緩が表面化し,農民の抵抗も高揚の傾向を示していた。

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大辞林 第三版の解説

とくがわつなよし【徳川綱吉】

1646~1709) 江戸幕府第五代将軍(1680~1709)。家光の四男。幼名徳松。母(桂昌院)は本庄氏。上野館林一五万石の領主。四代将軍家綱の養子となり将軍職を継いだ。大老堀田正俊のもとで湯島に聖堂を移築するなど文治主義の政治を展開、その後、側用人柳沢吉保を登用、悪貨乱発・生類憐みの令の制定など悪政を重ねた反面、その治政下に元禄文化の出現を見た。犬公方いぬくぼう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川綱吉
とくがわつなよし

[生]正保3(1646).1.8. 江戸
[没]宝永6(1709).1.10. 江戸
江戸幕府5代将軍 (在職 1680~1709) 。家光の4男。母は本庄氏の養女 (桂昌院) 。幼名は徳松。院号は常憲院。慶安4 (1651) 年 10月駿河,甲斐,上野,信濃,近江,美濃の6ヵ国で 15万石を領し,寛文1 (61) 年上州館林に 25万石を領した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳川綱吉
とくがわつなよし
(1646―1709)

江戸幕府第5代将軍。3代将軍家光(いえみつ)の四男。正保(しょうほう)3年1月8日生まれ。幼名徳松。生母は本庄(ほんじょう)氏桂昌院(けいしょういん)。1651年(慶安4)父家光の死後、上野国(こうずけのくに)(群馬県)その他で所領15万石を与えられ、1661年(寛文1)10万石加増、館林(たてばやし)城主となる。1664年左大臣鷹司教平女(たかつかさのりひらのむすめ)信子(のぶこ)と結婚。1680年(延宝8)5月兄4代将軍家綱(いえつな)の死後、5代将軍に就任。17世紀後半から社会は変質期に入って、全領主的支配の弛緩(しかん)、財政難が表面化し、農民の抵抗も高揚の傾向を示してきた。これに対応すべき幕政は、将軍家綱が病弱で主導力に欠け、固定化した政治機構が障害をなした。そこで綱吉は将軍になるやただちに、譜代(ふだい)の門閥として幕政の実権を握っていた大老酒井忠清(ただきよ)を罷免し、一方、綱吉の将軍就任を支持した老中堀田正俊(ほったまさとし)を大老とし、さらに寵臣(ちょうしん)を側近に集め、その地位を高めて老中同格の側用人(そばようにん)を創置し、自己の腹心で幕政の中枢を固めた。これと並行して、前代未解決であった越後(えちご)(新潟県)高田藩の御家騒動を親裁して親藩の筆頭越後松平家を取り潰(つぶ)し、これを手始めに幕臣に対し賞罰厳明の方策を仮借なく励行し、将軍の権威を絶大にし、とくに幕政上伝統的勢力をもつ譜代層を畏伏(いふく)せしめた。また直轄領統治の刷新に努め、財政専任の老中を設けて堀田正俊をこれに任じ、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)を創置し、勤務不良の代官を大量に処分した。
 このような綱吉の初期の施政は「天和(てんな)の治」などと称せられ、「享保(きょうほう)の改革」の前駆的意義が認められる。しかし綱吉の気まぐれで偏執狂的性癖も一因となって、幕臣の気風は将軍の権威の前に萎縮(いしゅく)し、ことに1684年(貞享1)堀田正俊が城中で刺殺されてのちは、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)ら側近の寵臣の権勢のみ増大する傾向を生じた。綱吉は幼少から儒学を愛好し、その精神を政治に反映させるべく、幕臣に講義し、全国に忠孝奨励の高札を立て、孝子表彰の制度を設けた。しかしその好学は観念の遊戯の色濃く、その施策は迎合する幕臣によってゆがめられ、とくに「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」は甚だしい虐政となり、世人は犬公方(いぬくぼう)とあだ名した。さらに当時の経済界の新しい展開への根本的対応策を欠き、幕府財政の悪化は進み、勘定奉行(ぶぎょう)荻原重秀(おぎわらしげひで)の建議で実施された貨幣悪鋳による経済界の混乱、物価騰貴を招き、一部役人と御用商人との腐敗した関係を生ぜしめた。こうして綱吉は在世中から悪評を受けつつ、宝永(ほうえい)6年1月10日天然痘によって死去した。法号を常憲院といい、墓は上野寛永寺(東京都台東(たいとう)区)にある。[辻 達也]

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世界大百科事典内の徳川綱吉の言及

【寛文印知】より

…江戸幕府の4代将軍徳川家綱の領知判物(はんもつ)・朱印状が1664年(寛文4)諸大名に,翌65年公家・寺社に一斉に発給されたことをいう。家康・秀忠・家光3代にわたり区々に発給されていたものが統一的・同時に発給され,大名領知権が将軍の全国的支配権に完全に包含されたことで,将軍権力の強化・確立をもたらしたといえる。大名は甲府・館林・尾張・紀伊・水戸の徳川5家,伊予宇和島と分知吉田の両者朱印状下付を願った伊達家を除いて全部に判物・朱印状・目録が下付された。…

【桂昌院】より

…3代将軍徳川家光の側室,5代将軍綱吉の生母。関白二条光平家司本庄宗利の養女。名は宗子。秋野,お玉の方と称す。家光側室六条有純の女お梅の方の縁で江戸へ下り,家光の寵をうけて綱吉を生む。1680年(延宝8)綱吉が将軍となって後,江戸城三丸に住み,三丸殿と称された。綱吉の厚い孝敬をうけ,1702年(元禄15)従一位に昇り,また弟本庄宗資をはじめその一族中幕臣として栄進する者も多かった。深く仏教に帰依し,僧亮賢,隆光等を信頼し,そこから生類憐みの令を極端に助長するなどの弊害が生じたといわれている。…

【生類憐みの令】より

…7~8世紀に牛馬屠殺祈雨風習の禁令,百姓私畜のイノシシの放養令,殺生禁令等があり,鎌倉幕府の殺生禁令をもふくめて,日本史上生類愛護の趣旨をふくむ政策は少なくないが,徳川綱吉政権の一連の政策が,とくに生類憐みの令とよばれる。この名称で総括したひとつの幕法は存在せず,その趣旨の法や措置をよぶため,始期についても諸説がある。…

【館林藩】より

…榊原氏は康政のあと2代在封して1643年(寛永20)奥州白河に転じ,番城1年を経て遠江浜松から松平(大給)乗寿が6万石で入封,乗寿は家光の側近老中として活躍したが,子乗久のとき61年(寛文1)下総佐倉に移った。代わって徳川綱吉が城主となり,旧領に館林領10万石を合わせて25万石を領有,城も大修築が加えられたが,80年(延宝8)綱吉は将軍職を継ぎ,子徳松が1歳で藩主となった。しかし徳松は83年(天和3)幼死したため,以後館林城は廃城となり,城付領は幕領のほか旗本領に細分された。…

【鉄砲】より

…戦闘用鉄砲需要停滞期に各地に広がっていた鉄砲製造者は,この需要に応じて農山村に鉄砲を広げ,17世紀の耕地開発に役割を演じた。幕府は,1657年(明暦3)関東盗賊取締令にはじまって,関東地方で鉄砲統制を強化していったが,全国規模での鉄砲取締りは1687‐88年(貞享4‐5)以降,徳川綱吉の諸国鉄砲改である。生類憐み政策の一環で,職業猟師の鉄砲と一部地域の用心鉄砲に登録のうえ実弾発射を認めたほかは,多くの在村鉄砲を没収させ,鳥獣害対策は登録した威(おどし)鉄砲による空砲を原則とし,やむなき際は領主管理下の撃殺を期日を限って認めた。…

【天和の治】より

…江戸幕府5代将軍徳川綱吉(在職1680‐1709)の初期の施政の通称。天和(1681‐84)に続く年号貞享(じようきよう)(1684‐88)をも冠して〈天和貞享の改革〉とも称する。…

【武家諸法度】より

…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…

【服忌令】より

…服忌令と称するものは,中世伊勢神宮その他の神社で作成されたのが初めであるが,それらは基本的には喪葬令服紀条と仮寧(けによう)令を組み合わせ,喪に服するものが与えられる休暇たる仮(か)を,死穢を忌む期間としてのに変えたものであった。江戸幕府では,これらをもとにして5代将軍徳川綱吉の1684年(貞享1)儒者林鳳岡(ほうこう),木下順庵,神道家吉川惟足(これたり)らの参画の下に,服忌令を制定公布,その後数次の改正の後,1736年(元文1)最終的に確定した(表参照)。服忌令は,そこに載せられた範囲の親族が原則として親類とされて互助などの義務を課せられるほか,それら親類の間に尊卑,親疎によって6段階の格差が設けられ,家父長制的な家族,親族秩序の強化に役だてられた。…

【堀田正俊】より

…70年若年寄,79年(延宝7)老中に進み,4万石を領し,従四位下に昇る。翌80年5代将軍を継いだ徳川綱吉から厚い信任を受け,財政専管を命ぜられ,翌81年(天和1)下総古河(こが)城主に転じ,5万石を加封,筑前守に改め,さらに大老に昇り,翌年4万石加増,合計13万石を領する。綱吉の初政期〈天和の治〉には正俊の補佐の功はすこぶる大きいと認められるが,やがてその権勢が幕臣の反感をよび,また剛直な性格が綱吉に嫌悪されるようになったと伝えられる。…

【柳沢吉保】より

…江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣。初名房安,保明(やすあきら),通称弥太郎。…

【隆光】より

…ついで奈良諸寺で唯識,華厳,三論,俱舎を受講し,86年(貞享3)江戸湯島の知足院住職となり,江戸城中鎮護の祈禱を務めた。将軍徳川綱吉に認められ,同年権僧正に抜擢(ばつてき)。88年(元禄1)には神田橋外に5万坪の地を賜り,知足院をここに移した。…

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