江戸幕府5代将軍。3代将軍家光の四男。幼名徳松。生母は本庄氏,桂昌院。1651年(慶安4)父家光の死後,上野国その他で所領15万石を与えられ,61年(寛文1)10万石加増,館林城主となる。64年左大臣鷹司教平女信子と結婚。80年(延宝8)兄4代将軍家綱の死後,5代将軍を継承した。前代末期,幕政は整備された機構を伴って安定した軌道にのっていたが,他面社会の変質期に入って全領主的支配の弛緩が表面化し,農民の抵抗も高揚の傾向を示していた。綱吉は将軍になるや直ちに,幕政の実権をにぎっていた大老酒井忠清を免職し,一方彼の将軍就任を支持した老中堀田正俊を大老とし,さらに寵臣を側近に集め,側用人の職を創置して側近の地位を老中同格にまで高め,政治の主導権をにぎろうとした。また未解決であった越後高田藩の御家騒動(越後騒動)を親裁して,親藩筆頭の越後松平家を取りつぶしたのを手始めに,幕臣に対して賞罰厳明政策を仮借なく励行して家格に依拠する譜代層を畏伏せしめ,将軍の権威を絶大にした。また堀田正俊に財政専管を命じ,勘定吟味役を創置して直轄領行政の刷新に努め,勤務不良の代官を大量に処分した。このような綱吉の初期の施政は幕政史上〈天和(てんな)の治〉などと称せられる。しかし綱吉の権威が強大になるにつれ,幕臣全般の気風は萎縮し,彼の政治的意図を実らせるべき新しい行政機構は成長せず,ことに84年(貞享1)堀田正俊が殺されて後は,牧野成貞,柳沢吉保ら側近の寵臣の権勢のみ増大する傾向が強くなった。
綱吉は幼少から儒学を愛好し,その精神を施政に反映させることに意欲を燃やし,しばしば幕臣を集めて講義をし,1680年には代官に人民統治の精神を訓令し,82年(天和2)には全国に忠孝奨励の高札〈忠孝札〉を立て,孝子表彰の制度も設けた。〈生類憐みの令〉も聖徳の君主の世には仁慈は鳥獣にまでおよぶという理想世界の実現を意図したものであった。しかしその好学は観念の遊戯の色濃く,その施策,とくに〈生類憐みの令〉は将軍に迎合する幕臣によってゆがめられ,綱吉の実子への執心に乗じて護持院隆光らがたきつけた迷信が加わって,人民へのはなはだしい虐政となった。さらに当時の経済界の新しい展開への根本的な対応策を欠いた経済政策は幕府財政の悪化を助長し,経済界を混乱させ,一部役人と御用商人や投機的商人との間に腐敗した関係を生ぜしめた。これらが綱吉への悪評の要因をなしている。晩年綱吉は実子をあきらめ,1704年(宝永1)兄綱重の子綱豊(6代将軍家宣)を養子とした。09年1月10日,綱吉は流行の天然痘によって死去した。法号を常憲院といい,上野寛永寺に葬られた。
執筆者:辻 達也
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江戸幕府第5代将軍。3代将軍家光(いえみつ)の四男。正保(しょうほう)3年1月8日生まれ。幼名徳松。生母は本庄(ほんじょう)氏桂昌院(けいしょういん)。1651年(慶安4)父家光の死後、上野国(こうずけのくに)(群馬県)その他で所領15万石を与えられ、1661年(寛文1)10万石加増、館林(たてばやし)城主となる。1664年左大臣鷹司教平女(たかつかさのりひらのむすめ)信子(のぶこ)と結婚。1680年(延宝8)5月兄4代将軍家綱(いえつな)の死後、5代将軍に就任。17世紀後半から社会は変質期に入って、全領主的支配の弛緩(しかん)、財政難が表面化し、農民の抵抗も高揚の傾向を示してきた。これに対応すべき幕政は、将軍家綱が病弱で主導力に欠け、固定化した政治機構が障害をなした。そこで綱吉は将軍になるやただちに、譜代(ふだい)の門閥として幕政の実権を握っていた大老酒井忠清(ただきよ)を罷免し、一方、綱吉の将軍就任を支持した老中堀田正俊(ほったまさとし)を大老とし、さらに寵臣(ちょうしん)を側近に集め、その地位を高めて老中同格の側用人(そばようにん)を創置し、自己の腹心で幕政の中枢を固めた。これと並行して、前代未解決であった越後(えちご)(新潟県)高田藩の御家騒動を親裁して親藩の筆頭越後松平家を取り潰(つぶ)し、これを手始めに幕臣に対し賞罰厳明の方策を仮借なく励行し、将軍の権威を絶大にし、とくに幕政上伝統的勢力をもつ譜代層を畏伏(いふく)せしめた。また直轄領統治の刷新に努め、財政専任の老中を設けて堀田正俊をこれに任じ、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)を創置し、勤務不良の代官を大量に処分した。
このような綱吉の初期の施政は「天和(てんな)の治」などと称せられ、「享保(きょうほう)の改革」の前駆的意義が認められる。しかし綱吉の気まぐれで偏執狂的性癖も一因となって、幕臣の気風は将軍の権威の前に萎縮(いしゅく)し、ことに1684年(貞享1)堀田正俊が城中で刺殺されてのちは、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)ら側近の寵臣の権勢のみ増大する傾向を生じた。綱吉は幼少から儒学を愛好し、その精神を政治に反映させるべく、幕臣に講義し、全国に忠孝奨励の高札を立て、孝子表彰の制度を設けた。しかしその好学は観念の遊戯の色濃く、その施策は迎合する幕臣によってゆがめられ、とくに「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」は甚だしい虐政となり、世人は犬公方(いぬくぼう)とあだ名した。さらに当時の経済界の新しい展開への根本的対応策を欠き、幕府財政の悪化は進み、勘定奉行(ぶぎょう)荻原重秀(おぎわらしげひで)の建議で実施された貨幣悪鋳による経済界の混乱、物価騰貴を招き、一部役人と御用商人との腐敗した関係を生ぜしめた。こうして綱吉は在世中から悪評を受けつつ、宝永(ほうえい)6年1月10日天然痘によって死去した。法号を常憲院といい、墓は上野寛永寺(東京都台東(たいとう)区)にある。
[辻 達也]
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(深井雅海)
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1646.1.8~1709.1.10
江戸幕府5代将軍(在職1680.8.23~1709.1.10)。3代将軍家光の四男。母は側室桂昌院(お玉の方)。幼名徳松。法号常憲院。1661年(寛文元)上野国館林藩主となるが,80年(延宝8)5月4代将軍家綱の後継となり,同年将軍職を継ぐ。前半は大老堀田正俊の補佐で文治政治を推進,賞罰厳明策をとり,儒学を好んで,90年(元禄3)江戸忍岡の聖堂を湯島に移し,翌年林信篤(のぶあつ)を大学頭に任じて朱子学を官学とした。正俊の死後は側用人牧野成貞や柳沢吉保を寵用,生類憐みの令をとったため犬公方(いぬくぼう)とよばれ,勘定奉行荻原重秀による貨幣改鋳などで治政は乱れたが,元禄文化が栄えた。
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…江戸幕府の4代将軍徳川家綱の領知判物(はんもつ)・朱印状が1664年(寛文4)諸大名に,翌65年公家・寺社に一斉に発給されたことをいう。家康・秀忠・家光3代にわたり区々に発給されていたものが統一的・同時に発給され,大名領知権が将軍の全国的支配権に完全に包含されたことで,将軍権力の強化・確立をもたらしたといえる。大名は甲府・館林・尾張・紀伊・水戸の徳川5家,伊予宇和島と分知吉田の両者朱印状下付を願った伊達家を除いて全部に判物・朱印状・目録が下付された。…
…3代将軍徳川家光の側室,5代将軍綱吉の生母。関白二条光平家司本庄宗利の養女。名は宗子。秋野,お玉の方と称す。家光側室六条有純の女お梅の方の縁で江戸へ下り,家光の寵をうけて綱吉を生む。1680年(延宝8)綱吉が将軍となって後,江戸城三丸に住み,三丸殿と称された。綱吉の厚い孝敬をうけ,1702年(元禄15)従一位に昇り,また弟本庄宗資をはじめその一族中幕臣として栄進する者も多かった。深く仏教に帰依し,僧亮賢,隆光等を信頼し,そこから生類憐みの令を極端に助長するなどの弊害が生じたといわれている。…
…7~8世紀に牛馬屠殺祈雨風習の禁令,百姓私畜のイノシシの放養令,殺生禁令等があり,鎌倉幕府の殺生禁令をもふくめて,日本史上生類愛護の趣旨をふくむ政策は少なくないが,徳川綱吉政権の一連の政策が,とくに生類憐みの令とよばれる。この名称で総括したひとつの幕法は存在せず,その趣旨の法や措置をよぶため,始期についても諸説がある。…
…榊原氏は康政のあと2代在封して1643年(寛永20)奥州白河に転じ,番城1年を経て遠江浜松から松平(大給)乗寿が6万石で入封,乗寿は家光の側近老中として活躍したが,子乗久のとき61年(寛文1)下総佐倉に移った。代わって徳川綱吉が城主となり,旧領に館林領10万石を合わせて25万石を領有,城も大修築が加えられたが,80年(延宝8)綱吉は将軍職を継ぎ,子徳松が1歳で藩主となった。しかし徳松は83年(天和3)幼死したため,以後館林城は廃城となり,城付領は幕領のほか旗本領に細分された。…
…戦闘用鉄砲需要停滞期に各地に広がっていた鉄砲製造者は,この需要に応じて農山村に鉄砲を広げ,17世紀の耕地開発に役割を演じた。幕府は,1657年(明暦3)関東盗賊取締令にはじまって,関東地方で鉄砲統制を強化していったが,全国規模での鉄砲取締りは1687‐88年(貞享4‐5)以降,徳川綱吉の諸国鉄砲改である。生類憐み政策の一環で,職業猟師の鉄砲と一部地域の用心鉄砲に登録のうえ実弾発射を認めたほかは,多くの在村鉄砲を没収させ,鳥獣害対策は登録した威(おどし)鉄砲による空砲を原則とし,やむなき際は領主管理下の撃殺を期日を限って認めた。…
…江戸幕府5代将軍徳川綱吉(在職1680‐1709)の初期の施政の通称。天和(1681‐84)に続く年号貞享(じようきよう)(1684‐88)をも冠して〈天和貞享の改革〉とも称する。…
…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…
…服忌令と称するものは,中世伊勢神宮その他の神社で作成されたのが初めであるが,それらは基本的には喪葬令服紀条と仮寧(けによう)令を組み合わせ,喪に服するものが与えられる休暇たる仮(か)を,死穢を忌む期間としての忌に変えたものであった。江戸幕府では,これらをもとにして5代将軍徳川綱吉の1684年(貞享1)儒者林鳳岡(ほうこう),木下順庵,神道家吉川惟足(これたり)らの参画の下に,服忌令を制定公布,その後数次の改正の後,1736年(元文1)最終的に確定した(表参照)。服忌令は,そこに載せられた範囲の親族が原則として親類とされて互助などの義務を課せられるほか,それら親類の間に尊卑,親疎によって6段階の格差が設けられ,家父長制的な家族,親族秩序の強化に役だてられた。…
…70年若年寄,79年(延宝7)老中に進み,4万石を領し,従四位下に昇る。翌80年5代将軍を継いだ徳川綱吉から厚い信任を受け,財政専管を命ぜられ,翌81年(天和1)下総古河(こが)城主に転じ,5万石を加封,筑前守に改め,さらに大老に昇り,翌年4万石加増,合計13万石を領する。綱吉の初政期〈天和の治〉には正俊の補佐の功はすこぶる大きいと認められるが,やがてその権勢が幕臣の反感をよび,また剛直な性格が綱吉に嫌悪されるようになったと伝えられる。…
…江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣。初名房安,保明(やすあきら),通称弥太郎。…
…ついで奈良諸寺で唯識,華厳,三論,俱舎を受講し,86年(貞享3)江戸湯島の知足院住職となり,江戸城中鎮護の祈禱を務めた。将軍徳川綱吉に認められ,同年権僧正に抜擢(ばつてき)。88年(元禄1)には神田橋外に5万坪の地を賜り,知足院をここに移した。…
※「徳川綱吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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