足利庄(読み)あしかがのしよう

日本歴史地名大系 「足利庄」の解説

足利庄
あしかがのしよう

旧足利郡・梁田やなだ郡域に位置し、東は南流するはた川、西は下野・上野の国境、南は南東流する旧渡良瀬川(現矢場川)、北は足尾あしお山地に連なる赤雪あかゆき山・仙人せんにんヶ岳などの峰や尾根を境とする広大な庄園。鎌倉時代初頭と推測される安楽寿院領諸庄所済注文案(安楽寿院古文書)によると、康治元年(一一四二)一〇月源義国が父義家から遺産として継承した足利郡内の開発私領を鳥羽上皇の御願寺である京都安楽寿あんらくじゆ(現伏見区)に寄進することによって成立。立庄当時は田九八町七反余・畠一〇六町二反余、国絹七一疋四丈・四丈白布二〇〇端・油五石代が安楽寿院へ納められた。義国は寄進後も下司職を保持して実質的な支配権をにぎり、のち、源姓足利氏の義兼―義氏―泰氏―頼氏へと相伝された。上級領主権は鳥羽上皇の死後、その寵妃美福門院、さらにその子八条院子)へと伝領された。寄進当初の当庄は、「五閑」「五ケ」(現足利市の中心市街地で伊勢町・通一―七丁目・緑町一―二丁目付近。近世の足利五ヶ村・足利新田の一部)を中心とした地域で、しだいに庄域を拡大し、室町期には南接する梁田御厨までも含めて足利庄と呼称されるようになった。

平安末から鎌倉初期にかけて、数千町歩の田地を領掌して「郡内の棟梁」といわれた足利郡司の藤姓足利氏と源姓足利氏とが、足利庄・梁田御厨の領有をめぐって激しく対立していた。一時、「足利庄領主職」は藤姓足利俊綱に与えられたが(「吾妻鏡」養和元年閏二月七日条)、藤姓足利氏は寿永二年(一一八三)の野木宮合戦において同盟軍の志田義広が源頼朝軍に敗北し、没落が決定的となった。一方、源姓足利氏は鎌倉幕府の創設に協力し、以後、当庄の庄官および鎌倉御家人としての存在を主張した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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