日本歴史地名大系 「足利庄」の解説
足利庄
あしかがのしよう
- 栃木県:足利市
- 足利庄
旧足利郡・子)へと伝領された。寄進当初の当庄は、「五閑」「五ケ」(現足利市の中心市街地で伊勢町・通一―七丁目・緑町一―二丁目付近。近世の足利五ヶ村・足利新田の一部)を中心とした地域で、しだいに庄域を拡大し、室町期には南接する梁田御厨までも含めて足利庄と呼称されるようになった。
平安末から鎌倉初期にかけて、数千町歩の田地を領掌して「郡内の棟梁」といわれた足利郡司の藤姓足利氏と源姓足利氏とが、足利庄・梁田御厨の領有をめぐって激しく対立していた。一時、「足利庄領主職」は藤姓足利俊綱に与えられたが(「吾妻鏡」養和元年閏二月七日条)、藤姓足利氏は寿永二年(一一八三)の野木宮合戦において同盟軍の志田義広が源頼朝軍に敗北し、没落が決定的となった。一方、源姓足利氏は鎌倉幕府の創設に協力し、以後、当庄の庄官および鎌倉御家人としての存在を主張した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報