律令制の整備以前の本県域には、支配者を異にする
下毛野国は本来
那須国を支配した那須国造について、「国造本紀」は景行天皇の時に建沼河命の孫の大臣命を国造に任じたことに始まるとする伝承を載せている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。野州。現在の栃木県。
東山道に属する上国(《延喜式》。ただし例損すなわち国内の荒廃田が10分の3以下のときは大国なみの扱いをうけた)。大化前代は大別すると,那須国造,下毛野国造に代表される二つの政治的・文化的地域に分かれていた。下毛野は渡良瀬川をはさんで西側の上毛野とともに毛野(けぬ)としての独自の文化圏を形成していた。大化改新以後,評(こおり)の設置が進行していく過程で那須が評(郡)として位置づけられた(那須国造碑)。国府は都賀郡にあり,現在の思川流域の栃木市田村町に遺跡が残っている。郡は《延喜式》では足利,梁田(やなだ),安蘇,都賀,寒川,河内,芳賀,塩屋,那須の9郡に分かれていた。郡家の遺跡として芳賀郡衙跡(塔法田遺跡),那須官衙跡(梅曾遺跡)が調査されている。駅路は東山道が上野国から下野国へ入り,足利,三鴨,田部,衣川,新田,磐上,黒川を通って陸奥国へと続いており,下野国は蝦夷経営のうえでも重要な位置を占めていた。しばしば東国の諸国とともに兵士,兵糧,武器の調達や陸奥への人の遷置などにかかわっている。また《延喜式》には服属した蝦夷である俘囚のための料が,肥後,近江についで10万束も計上されており,俘囚の大量の移住が推測される。仏教に関しては国分寺・尼寺が現在の下都賀郡国分寺町におかれ,三戒壇の一つとして東国の沙弥・沙弥尼の受戒を行った下野薬師寺が造営された。また最澄の六処宝塔院の一つが都賀郡の大慈寺におかれ,日光開山の勝道上人(芳賀郡の若田氏出身)や天台宗の円仁(都賀郡の壬生(みぶ)氏出身)などもでている。
執筆者:勝浦 令子
創業期の鎌倉幕府を支えた下野の有力御家人には,平将門の乱鎮圧に功のあった藤原秀郷の子孫小山(おやま),結城(ゆうき),長沼,佐野,小野寺などの諸氏のほか,源姓足利,宇都宮,那須の各氏がいた。小山氏は鎌倉・南北朝時代を通じて一貫して下野の守護であり,一時期播磨の守護職をも兼帯し,また支族の長沼氏も淡路国の守護職に任ぜられている。宇都宮氏は1189年(文治5)奥州征伐の恩賞として陸奥遠田郡の地頭職に任命され,また宇都宮二荒山(ふたらやま)神社の社務職を相伝するなど,下野中部随一の武将として活躍した。1283年(弘安6)の《宇都宮家式条》は,武家の家法として最も古い。なお宇都宮氏は代々和歌をよくし,〈宇都宮歌壇〉と呼ばれる一大地方歌壇を形成した。小山氏が武門の棟梁とすれば,宇都宮氏は文官的色彩の強い武将であった。鎌倉期の寺院では,仏国国師の再興になる大田原市の旧黒羽町の臨済宗雲巌寺や足利義兼の持仏堂から発展した足利市の鑁阿寺(ばんなじ),真岡市の旧二宮町高田の専修寺などが著名である。
1331年(元弘1)後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると小山,足利,宇都宮,那須などの諸氏は幕府方として戦い,とりわけ宇都宮公綱は紀・清両党を率いてめざましい活躍をした。最初幕府方として挙兵した足利尊氏は33年後醍醐天皇に応じて京都の六波羅探題を攻め,幕府倒滅に活躍した。ところが35年(建武2)11月尊氏は新政府に不満を持つ武士を組織して反旗をひるがえしたので,天皇は吉野の山深く潜幸し,下野の武士も南北両陣営に分かれて互いに争った。南朝側は北畠親房を中心に東国経営に乗り出し,親房は奥州白川の豪族結城親朝を味方につけることにより,去就の定まらない東北・関東の諸豪族を南朝側に帰服させようとした。
しかし下野最大の豪族的領主小山氏は観望の態度をとり続け,親房は〈進退これきわまるものなり〉と嘆いている。さらに41年(興国2・暦応4)の藤氏一揆は親房を悩ませた。それは,前関白近衛経忠が藤原氏子孫の小山氏や常陸の小田氏,結城氏に働きかけ,いわゆる藤原同盟を結成し,経忠自身が天下の政権をとり,小山朝郷(朝氏)が〈坂東管領〉になるという構想であり,明らかに南朝でも北朝でもない第三王朝の建設を目ざしたものである。この構想は46年(正平1・貞和2)小山朝郷の死で実現に至らなかったが,動乱の最中における注目すべき動向であった。
50年(正平5・観応1)足利尊氏・直義兄弟が対立した観応の擾乱(じようらん)は,東国社会にも深刻な影響を与えた。宇都宮氏綱は芳賀禅可(はがぜんか)(高名)とともに尊氏方に属して翌51年駿州薩埵山の戦で活躍し,賞として上野,越後の守護職に補任され,芳賀高名の子高家・高貞が越後守護代となった。ところが63年(正平18・貞治2)鎌倉公方足利基氏の力添えで上杉憲顕が関東管領・越後守護に復帰し,氏綱は武力で阻止しようとして敗れ,68年(正平23・応安1)武蔵の平一揆(川越,江戸,豊島氏等)と結んで再度兵を挙げた。基氏は氏綱討伐の軍を派遣して宇都宮城を攻落した。氏綱の後を継いだ基綱は80年(天授6・康暦2)下野守護小山義政と対立して殺された。鎌倉公方足利氏満はただちに関東の諸将に義政追討を命じ,義政は鷲城,祇園城,粕尾城などに拠って抗戦したが,82年(弘和2・永徳2)自害し,ここに名族小山氏は断絶した。公方氏満は名族の断絶を惜しみ,同族の結城基光の次男泰朝をして再興させた。
義政の乱後,15世紀の関東はつぎつぎに大事件が勃発する。1416年(応永23)前関東管領上杉禅秀が,鎌倉公方足利持氏,関東管領山内上杉憲基に対して反乱を起こし,翌年禅秀側が破れて鎌倉雪ノ下で自害した。禅秀方には,那須資之,宇都宮左衛門佐,薬師寺,佐野左馬助,小山等の諸将,持氏方には宇都宮持綱,長沼義秀らがいた。上杉禅秀の乱に勝利した足利持氏は,宇都宮,那須など将軍に直結した京都扶持衆といわれる北関東の国人層の弾圧に乗り出し,京都の改元にも従わず,幕府の直轄領足利荘を押領するなど,専制権力の確立につとめた。穏健派の関東管領上杉憲実は持氏と不和になり,38年(永享10)永享の乱が勃発した。上杉=幕府方の下野武士は小山持政や小野寺通朝らで,持氏側には那須資重や長沼,茂木の各氏が味方した。翌39年の持氏の自害で基氏以来80年存続した鎌倉府が滅亡し,関東の動乱もようやく終息するかにみえたが,40年永享の乱の余波ともいうべき結城合戦が勃発する。持氏の遺児春王,安王は持氏余党に擁立されて挙兵し,結城氏朝の拠る結城城に迎えられた。総大将上杉清方の幕府軍には宇都宮等綱,小山持政らが参陣し,籠城軍には宇都宮伊予守,小山大膳大夫,同子息九郎,同舎弟生源寺らがいた。翌41年(嘉吉1)結城城は落ち,結城一族は滅亡した。合戦には東国豪族層のほとんどが参加し,概して惣領が上杉=幕府方に,庶子家が結城方についた。このような一連の関東の動乱の基本的エネルギーは,惣領制の矛盾・解体の中から生み出された国人領主層および中小武士の結合組織である一揆勢力であった。こうした社会構造の変化の基底には,応永期を頂点とする農民闘争の高まりがあったことはもちろんである。
結城合戦で一命を助けられた持氏の遺児永寿王丸は,鎌倉公方足利成氏として復活した。ところが54年(享徳3)12月成氏は関東管領上杉憲忠を殺し,関東は再び享徳の大乱へと突入する。幕府はただちに成氏追討を決め,鎌倉を退避した成氏は北関東の伝統的豪族層に擁され,以後下総古河を御座所としたため,古河公方と称された。一方,上杉氏は守護国上野,武蔵などの一揆勢力を基盤とし,おおむね利根川をはさんで対峙した。成氏方には小山持政,那須資持(下那須),宇都宮明綱,茂木持知ら,上杉方には宇都宮等綱,那須氏資(上那須),茂木知行らが味方した。幕府は58年(長禄2)反成氏戦線の最終的権威づけとして,足利政知を伊豆に下した。これが堀越公方である。やがて82年(文明14)11月関東は一時小康状態を得るが,扇谷・山内両上杉氏の内紛や,それに乗じた北条早雲の小田原攻略によって再び収拾のつかない混乱に陥った。
すなわち下野北部の大関,大田原,千本,那須などの那須衆,中部の塩谷,芳賀,宇都宮などの宇都宮衆,南部の佐野,小山,壬生,足利長尾,渋川などの諸豪族が互いに連携対立をくりかえし,さらに古河公方(足利晴氏・義氏)をはじめ,北からは蘆名氏,白川結城氏,東からは佐竹氏,西からは上杉氏,武田氏,南からは後北条氏などの外部勢力が介入し,外戦内訌をくりかえした。とりわけ後北条氏は天正年間(1573-92)壬生,小山,佐野,長尾の各氏を屈伏させ,関東一円を制圧する勢いを示した。1590年3月,豊臣秀吉は関東征定の大軍を率いて京都を出発し,後北条氏もまた関東各地の諸大名に参陣を呼びかけた。
なお文化・産業面では,中世から近世にかけての“坂東の大学”足利学校や佐野の天明(てんみよう)鋳物などが特筆される。
執筆者:新川 武紀
下野国が中世世界から近世支配にかわっていくのには,二つの洗礼をうけなければならなかった。その一つは中世以来の領主層の清掃であり,他は新しい基準による土地支配原則の樹立である。下野国でその役割を果たしたのが小田原征伐であり,太閤検地であった。
豊臣秀吉の小田原征伐は1590年4月からはじまり,下野を代表する領主たちは,家運を賭しての二者択一をせまられた。小田原本城に手兵を率いて籠城軍に加わったのは,壬生城主の壬生義雄,皆川城主の皆川広照,足利城主の長尾顕長たちである。小田原城はこの年7月5日には開城したが,それまでに皆川広照は徳川家康の内応工作に乗り,手兵100余名を率いて出城していた。このほかで看過できないのは,下野国きっての名族小山秀綱(小山城主)と那須資晴(烏山城主)の動向であった。まず秀綱は小田原開城2日後に所領没収で故国を去り,資晴は那須衆から孤立して,那須家発祥の地佐良土への退隠を余儀なくされていた。なお,那須氏は南北朝期に分裂し,上那須家はすでに滅亡していた。那須氏が興廃の淵に立たされたとき,秀吉の陣営にいち早く伺候して参陣を誓約していたのは,上那須衆を代表する大田原城主大田原綱清の嫡子晴清,黒羽城主大関高増であった。また秀吉の陣営に参陣して所領安堵された勢力では,秀吉らの支援で唐沢山城を前城主佐野宗綱の弟了伯が後北条氏から回復しており,さらに宇都宮国綱が,佐竹義宣を後見として生き延びていた。
以上が秀吉の小田原征伐をめぐる激しい興亡の動きであるが,わずかに残ったのは宇都宮,皆川,佐野の3氏と那須衆のみであった。なお,以後慶長末年までに宇都宮,佐野の両氏は改易,残る皆川氏は1608年(慶長13)信州飯山に転封され,代わって奥平家昌,本多正純ら譜代大名が進出した。また日光東照宮が造営されて日光道中,奥州道中,日光例幣使街道,壬生通りなどの街道が通じ,河川交通も発展して宿駅や河岸(かし)が発達した。
小田原城陥落後の7月17日には,徳川家康に関八州への転封令が出され,秀吉みずからは奥羽仕置のため,会津に出発,そして8月12日には浅野長政に〈山のおく,海は櫓(ろ)・櫂(かい)のつづくかぎり〉きびしく検地を実行せよと指令していた。この検地では田,畑,屋敷を石高で表示し,360歩1反を300歩に切り替え,京枡を度量衡の基準とし,一地一作人,作合否定の原則をたてて,検地に臨んでいた。奥羽検地では激しい検地反対の一揆がみられ,このなかで領内検地と支城の破却が圧倒的な軍事力を背景に進められていった。これに対し下野の検地は奥羽検地との同時進行ではなく,文禄2年(1593)12月の検地帳奥書を残し,検地総奉行として浅野長政が署名していることから,この時期前後に下野の検地がはじまり,河内郡下岡本村に残る検地帳に文禄4年11月の奥書をみるところから,少なくとも2年の歳月をかけて太閤検地が進行していたことを物語る。
中世から近世への移行のとき,下野でも伝統的な領主支配が崩され,兵農分離が進行し,小農簇生(そうせい)の方向を誤りなくみせていた。そして,この太閤検地で打ち出された下野一国の郷高は37万4082石であった。9郡の合計郷高の変化を1701年(元禄14)と1834年(天保5)について指数の変化でみると,前者で182,後者で205となっている。この数字はいろいろに解釈できるにせよ,下野において主家の滅亡から帰農土着した勢力が重層的に存在し,そこに,新田開発による郷高の増進を指摘することができよう。
次に天保期の郷高が77万石余に達した下野一国はいかなる所領構成であったか,《旧高旧領取調帳》の記載を天領・旗本領・藩領・その他に分けた場合のそれぞれの割合と,元禄期の全国的な大略の割合(天領17,旗本領10,藩領73)を比較してみる。下野では天領の11%に日光神領・霊屋(たまや)領を加えても13.5%にとどまるが,旗本領は34.8%をしめ,しかもこの内1村に2人以上の旗本給地がある相給(あいきゆう)関係の比率が15.99%をしめている。他方,宇都宮藩,黒羽藩など藩領の比重は49.7%である。ここでの特色はこの比重関係と同時に,前述の那須衆のうち大田原・大関の両氏が,中世以来の支城に拠って北関東の一角に外様の小大名として存続し続けたこともあげられよう。日光神領の存在とともに注目される。また下野一国の人口増減を1721年(享保6)以降でみると,下野と常陸の両国は,21年の人口指数100に対し,以後約100年のあいだに60台まで減少をみせている。しかもこれは後述のように,各郡別に特産物生産による商品貨幣経済の発達という事態のもとでの脱農民化と,他方では買うために売る窮迫販売の深刻さを伝えるものであった。なお,下野一国の1721年の人口は56万0020人であるが,最低指数61.1まで落ちこんだのは1834年前後であった。
《明治十年全国農産表》を基礎資料として,各郡別の特有農産物について概括しておこう。この《農産表》では,国別と郡別に,普通農産物と特有農産物とに区別して,前者については主雑穀類と根菜類をあげ,それぞれの仕付面積,収穫量,単価を記載し,特有農産物は収穫量と単価のみが記入されている。まず両者の比重についてみると,前者が77%,後者が残りの23%となっている。この両者の配分比率は,ほぼ全国の状況といってよい。ただ,全国の状況では,特有農産物が繭,楮(こうぞ)皮,葉煙草,茶の順位となるが,下野では大麻,菜種,実綿,葉煙草,干瓢(かんぴよう)の順となっている。
次に郡別の特有農産物の割合をみると,9郡のうち,特有農産物の割合の最も高いのが安蘇郡の44.8%,最低は塩谷郡の6.2%で,郡別較差は著しい。そこで郡別に第3位までの特有農産物名をあげると,まず安蘇郡では菜種31.9%,大麻4.3%,藍3.6%というように,商業的農業の最先進型類型を示している。これにつぐのが329ヵ村を包括する広域の都賀郡で,特有農産物の割合は27.8%でうち大麻19.8%,藍2.7%,菜種1.7%である。比率最低の塩谷郡は実綿の1.7%以下葉煙草,朝鮮人参となり,いずれも1.5%以下となっている。特有農産物の比率が10%以下の郡は寒川郡,河内郡であるが,前者は繭,実綿,菜種,後者は実綿,菜種,藍の順序である。郡別第3位の梁田郡は21.5%,第5位の足利郡は12.5%で,特有農産物の順位は前者が菜種,繭,藍,後者は繭,菜種,実綿となり,足利郡の繭は9.3%をしめている。また那須郡は19.8%で郡別第4位,芳賀郡は12.3%で第6位をしめ,前者は葉煙草,楮皮,実綿,後者は実綿,楮皮,菜種の順となっている。芳賀郡は真岡(もおか)木綿の伝統的な特産物をはぐくみながら,化政期(1804-30)の38万反の生産が明治初年には1万反台の激減をみた機業地をかかえていた。開港を契機とした変動といわれるが,他方同じ下野にあって開港を契機として隆盛をみているのが足利織物であった。つまり換金度の高い商業的農業地域と自給率の高い後進農村地域との混在を,所領関係同様ここでも下野の特色として指摘することができよう。
執筆者:長倉 保
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
北関東にあった旧国名。地域は現在の栃木県にほぼ一致する。『和名抄(わみょうしょう)』によると足利(あしかが)、梁田(やなだ)、安蘇(あそ)、都賀(つが)、寒川(さむかわ)、河内(かわち)、芳賀(はが)、塩屋(しおのや)、那須(なす)の9郡からなっているが、これら郡名は明治に至るまで残存した。ただし「塩屋」は「塩谷」とされた。以上、国、郡の設立年代は不明であるが、北関東は古く「毛野(けの)」とよばれ、分かれて上野(こうずけ)国と下野国となったのである。文献に下野国の名が最初に現れるのは676年(『日本書紀』天武(てんむ)天皇5年5月7日条)であり、少なくもこれ以前に下野国は設立されていたと考えられる。現在、大田原(おおたわら)市湯津上(ゆづかみ)にある那須国造(くにのみやつこ)碑は、古代史解明に貴重な史料を提供するものである。その文中に689年(持統天皇3)那須直韋提(なすのあたえいでい)が評督(こおりのかみ)を賜ったとあるのは、このとき那須国が那須郡となり、下野国に編入されたことを示す。さらに下野の古代史において忘れることができないのは下野薬師寺の存在である。同寺の創建年代は天武天皇(在位673~686)時代とされ、同寺に戒壇が設けられたのが761年(天平宝字5)とされる。東大寺、筑紫(つくし)観世音寺(かんぜおんじ)のそれとともに三戒壇という。坂東(ばんどう)十国の得度(とくど)をしようとする者はことごとく同寺へ集まった。
辺境にあって蝦夷(えぞ)と対峙(たいじ)し、緊張関係を維持した関東地方には、武力を蓄える豪族が輩出した。彼らは農民を使役して耕作、開墾を行うもので、彼らの私闘が反乱へと拡大したのが平将門(まさかど)の乱である(939~940)。下野国もこの戦乱に巻き込まれたが、その平定に功があったのが下野押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ひでさと)であった。中世になるとその子孫は蕃衍(はんえん)した。すなわち、足利の足利氏、佐野の佐野氏、小山(おやま)の小山氏、下総(しもうさ)結城(ゆうき)の結城氏などがおもなるものであった。かくて中世になると足利、佐野、小山氏のほか、北には那須氏、中央には宇都宮氏などの在地領主が出現した。そして藤姓足利氏の後は源姓足利氏が勢威を振るい、ついに足利将軍家となったのである。
近世になると下野の政治的景観は一変した。当国に城地を有する大名のうちで終始最大であったのは宇都宮藩であった。しかし、それでも高10万石前後にすぎなかった。下野の北辺に残った那須衆の大名、大関(おおぜき)、大田原(おおたわら)氏を除けば、いずれも譜代(ふだい)大名で激しく転封した。かくて領有形態は、大名、旗本、寺社領および幕府直轄領と複雑な入り組み状態を形成した。これも幕府の強力な権力支配下にして初めて可能なことであった。この幕府の「神祖」徳川家康が東照大権現(とうしょうだいごんげん)として日光山に鎮座したことは、当国の人心に大きな影響を与えた。下野国は足利地方の機業、それに古くから有名な佐野の天命(天明)(てんみょう)鋳物のほか特別な産業もなく、主穀農業が主たるものであった。したがって後進的な地域であったが、東照宮の鎮座はそれに拍車をかけ、典型的な封建的人間像を造成した。明治維新後、当国の行政区域はしばしば転変したが、1871年(明治4)廃藩置県とともに栃木、宇都宮両県となり、73、76年の改正により現行政区域の栃木県が成立した。
[秋本典夫]
『河野守弘著『下野国誌』全12巻(1848/復刻版・1959・下野新聞社)』
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東山道の国。現在の栃木県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では足利・梁田(やなだ)・安蘇(あそ)・都賀(つが)・寒川・河内・芳賀(はが)・塩屋(しおのや)・那須の9郡からなる。国府は都賀郡(現,栃木市),国分寺・国分尼寺も同郡(現,下野市国分寺)におかれた。一宮は宇都宮市の二荒山(ふたらさん)神社。「和名抄」所載田数は3万155町余。「延喜式」では調庸は帛・絁(あしぎぬ)・布など,中男作物は麻など。薬師寺(現,下野市)には戒壇が設置され,東国の僧尼の授戒を担当した。平安末期に藤原秀郷(ひでさと)直系の小山氏などの武士団が勃興,小山氏は鎌倉時代を通じて守護であったが,南北朝末期に鎌倉公方と対立し,勢力が低下。戦国末期には中世以来の武士団はほとんど没落した。近世には国内11藩領,他国18藩領,幕領,旗本領,日光神領などに細分された。1869年(明治2)幕領,旗本領,日光神領は日光県とされ,71年の廃藩置県の後,宇都宮県・栃木県が成立。73年宇都宮県を栃木県に合併。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…関東地方北西部の地域名。広義には古代に毛野(けぬ)と呼ばれた範囲を指し,現在の群馬県全域と栃木県南部にあたる。この地域はのちに上毛野国(奈良時代以降の上野(こうずけ)国),下毛野国(下野(しもつけ)国)に分かれたことから,両毛地方の名が使われるようになった。狭義には群馬県南東部から栃木県南西部にかけての東西に長い地域を漠然と指し,JR両毛線とこれに連絡する東武鉄道各線の沿線一帯にあたり,現在ではこの使い方が一般的である。…
※「下野国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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