軽海村(読み)かるみむら

日本歴史地名大系 「軽海村」の解説

軽海村
かるみむら

[現在地名]真正町軽海

下真桑しもまくわ村の南に位置し、西域をさい川が南流。矩形の平坦低地に立地。弥生式土器が出土し、中世には軽海郷が成立。戦国時代には軽海西城・同東城があった。永禄五年(一五六二)織田信益の拠った十九条じゆうくじよう(現穂積町)を斎藤龍興勢が攻め寄せ軽海で合戦した(「享禄以来年代記」ほか)。このとき龍興方の稲葉員通(弘通)は討死し、当村に葬られたという(稲葉系図)。同一二年六月七日の織田信長朱印状(豊後臼杵稲葉文書)によれば「軽海半分」が稲葉貞通に宛行われている。豊臣秀吉政権下では、一柳伊豆守直末が天正一三年(一五八五)以前に「美濃国賀留美ニテ」五万石を給与され、一柳監物直盛は同所に一千五〇〇石を給された(一柳家記)


軽海村
かるみむら

[現在地名]小松市軽海町・西軽海町にしかるみまち一―四丁目・希望丘きぼうがおか

かけはし川上流左岸、山地平地の境にあり、北は荒木田あらきだ村、東の対岸遊泉寺ゆうせんじ村。「かるび」とも発音する。古代の軽海郷の遺称地。正保郷帳では高九九八石余、田方四二町一反余・畑方一六町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千二〇石、免五ツ三分、小物成は山役二八二匁、油役八匁(退転)であった(三箇国高物成帳)。明治初年の本籍九五戸、人数男二三〇・女二三八、荷船九、物産に蕃薯・実綿・麻・葉煙草・菜種・藺・枚木・杪・繭・生糸・真綿・木綿などがある(皇国地誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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