近藤村(読み)こんどうむら

日本歴史地名大系 「近藤村」の解説

近藤村
こんどうむら

[現在地名]館林市近藤

東は小桑原こくわばら村、南は青柳あおやぎ村、北は成島なるしま村。応永四年(一三九七)一二月二五日の弥九郎在家売券写(正木文書)には「江黒郷之内こんとうかはら」とみえ、羽継弥九郎知行の御堂垣内の在家が世良田了清に売渡されている。この近藤原こんどうがはらが当村一帯をさすものかどうかは不明。正徳年間(一七一一―一六)成島村から分村したといわれる。しかし、弘化三年(一八四六)の村々御林帳(館林藩史料)には「青柳村近藤分」とある。


近藤村
こんどうむら

[現在地名]奈義町滝本たきもと

北野きたの村の南に位置。たき川が南流する。西は広戸ひろど草屋くさや(現勝北町)。村名は保元・平治の乱の頃に近藤武者が流れ着いたことに由来するという(東作誌)正保郷帳に村名がみえ、田一一七石余・畑九石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高二五石余・開高一一石余、村位は下。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数一六(うち久長六など)。元禄二年の鉄砲改帳(弓斎叢書)では用心鉄砲一。津山藩主森氏断絶後の領主の変遷は、宝永五年(一七〇八)までは上町川かみまちがわ村と同様、その後は未詳だが近世末は幕府領だったようである。


近藤村
こんどうむら

[現在地名]茨城町近藤

大戸おおど村の西北にある。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に、とうみ今藤村一六六・二七石とあるうちの今藤村は当村のことか。


近藤村
こんどうむら

[現在地名]富津市近藤

きぬ村の南東に位置する。吉野よしの郷七村のうち。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高二二四石。元禄郷帳では高二〇九石余で、幕末まで変わらない。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二〇で、旗本赤松領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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