朝日日本歴史人物事典 「近衛経忠」の解説
近衛経忠
生年:乾元1(1302)
南北朝時代の公家。父は近衛家平。母は家女房。正中1(1324)年右大臣を経て,元徳2(1330)年関白就任。同年関白を辞すが,建武3/延元1(1336)年光明天皇践祚により関白に還任された。家督を従兄弟基嗣と争い,後醍醐天皇に讒言し基嗣の失脚を謀るが成功せず,建武4/延元2年吉野へ出奔。南朝に仕える。暦応4/興国2(1341)年帰洛後,藤原氏同盟を計画し,関東の小山氏らに協力を求めるが得られず,計画は破綻。文和1/正平7(1352)年出家し,翌日死去。堀河院と号す。経忠の吉野出奔により息経家・冬実は昇進停止となり,家督は基嗣に移った。以後近衛家は基嗣流となる。<参考文献>佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社版『日本の歴史』9巻),平山敏治郎『日本中世家族の研究』
(湯川敏治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報