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近衛経忠 このえ つねただ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

近衛経忠 このえ-つねただ

1302-1352 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
乾元(けんげん)元年生まれ。近衛家平(いえひら)の子。元徳2年(1330)関白となるが,同年辞任。建武(けんむ)元年(1334)右大臣,氏長者となり,2年左大臣。光明(こうみょう)天皇即位とともに関白に再任されるが,従弟(いとこ)近衛基嗣(もとつぐ)に家督争いで敗れ,吉野で南朝につかえた。従一位。観応(かんのう)3=正平(しょうへい)7年8月13日死去。51歳。通称は堀河関白。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

近衛経忠

没年:文和1/正平7.8.13(1352.9.21)
生年:乾元1(1302)
南北朝時代の公家。父は近衛家平。母は家女房。正中1(1324)年右大臣を経て,元徳2(1330)年関白就任。同年関白を辞すが,建武3/延元1(1336)年光明天皇践祚により関白に還任された。家督を従兄弟基嗣と争い,後醍醐天皇に讒言し基嗣の失脚を謀るが成功せず,建武4/延元2年吉野へ出奔。南朝に仕える。暦応4/興国2(1341)年帰洛後,藤原氏同盟を計画し,関東の小山氏らに協力を求めるが得られず,計画は破綻。文和1/正平7(1352)年出家し,翌日死去。堀河院と号す。経忠の吉野出奔により息経家・冬実は昇進停止となり,家督は基嗣に移った。以後近衛家は基嗣流となる。<参考文献>佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社版『日本の歴史』9巻),平山敏治郎『日本中世家族の研究』

(湯川敏治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の近衛経忠の言及

【下野国】より

…さらに41年(興国2∥暦応4)の藤氏一揆は親房を悩ませた。それは,前関白近衛経忠が藤原氏子孫の小山氏や常陸の小田氏,結城氏に働きかけ,いわゆる藤原同盟を結成し,経忠自身が天下の政権をとり,小山朝郷(朝氏)が〈坂東管領〉になるという構想であり,明らかに南朝でも北朝でもない第三王朝の建設を目ざしたものである。この構想は46年(正平1∥貞和2)小山朝郷の死で実現に至らなかったが,動乱の最中における注目すべき動向であった。…

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