日本歴史地名大系 「遊馬村」の解説 遊馬村あすまむら 埼玉県:大宮市遊馬村[現在地名]大宮市西遊馬(にしあすま)・湯木町(ゆぎちよう)・プラザ二ッ宮(ふたつみや)村・飯田(いいだ)新田の北に位置し、大部分が荒川の沖積低地に立地する。中央を二条の自然堤防が南北に続く。北部を大宮町から川越城下へ通ずる道が東西に通る。西は荒川を挟んで入間(いるま)郡古谷本(ふるやほん)郷(現川越市)。戦国期の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「足立郡遊馬郷指扇村市祭成之」とあり、指扇(さしおうぎ)村を含む付近一帯は中世末には遊馬郷とよばれていた。江戸時代には植田谷(うえたや)領に属する。慶長一六年(一六一一)に検地が行われたと伝える(風土記稿)。寛永六年(一六二九)の遊馬新田村年貢割付状(都築家文書)によると、上田一町二反余・中田四町二反余・下田一〇町八反余・下々田三町七反余・下々之下田四反余、畑一六町一反余・屋敷三町三反余で、取米四九石余・取永一一貫四九四文、ほかに田四反余があり取米四斗余。田園簿では高七七五石余、田四五町四反余・畑二七町九反余・高内野銭永三四貫二三七文で、幕府領と旗本丸茂・西山二氏の三給。 遊馬村あすまむら 埼玉県:草加市遊馬村[現在地名]草加市遊馬町柳島(やなぎしま)村の西にあり、南は新里(につさと)村、北は榛松(はえまつ)村(現川口市)、西は舎人(とねり)村(現東京都足立区)。南西端を流れる毛長(けなが)川河道の自然堤防微高地と後背低湿地を占める。微高地上には古墳とも伝える弁慶(べんけい)塚があり、村名から古代の牧の所在地にあてる俚伝もある。足立郡舎人領に属した(風土記稿)。田園簿では田一〇六石余・畑三八石余、幕府領。元禄八年(一六九五)検地され、高一七二石余・三一町二反余、内訳は田九七石余・一四町八反余、畑七一石余・一五町八反余、屋敷三石余・四反余(「篠葉村万手控書」関根家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by