草加市(読み)ソウカシ

デジタル大辞泉 「草加市」の意味・読み・例文・類語

そうか‐し〔サウカ‐〕【草加市】

草加

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日本歴史地名大系 「草加市」の解説

草加市
そうかし

面積:二七・四二平方キロ

県南東端に位置し、南は東流する毛長けなが川を隔て東京都足立区、東は南流する綾瀬川を隔て八潮市、中川を隔て三郷みさと市・北葛飾郡吉川よしかわ町に接し、北は越谷市、西は川口市。関東平野の低地帯にあり、標高は約二メートル、古来から水害の常襲地であった。綾瀬川は北西部から北境を東流したのち、南下する新流路と、蛇行しながらさらに東流し南へ流れ下る古綾瀬ふるあやせ川に分れ、市域南部で綾瀬川として合流する。西部を伝右でう川が北西から南東へ流れ、東部を葛西かさい用水、さらに東を八条はちじよう用水が南流する。ほぼ中央部を東武伊勢崎線が南北に縦貫し、新田しんでん松原団地まつばらだんち・草加・谷塚やつかの四駅が設けられている。

〔原始・古代〕

縄文時代中期以降の海退で沖積化が進み、河川がつくりあげた自然堤防上に縄文時代中期と晩期の土器をもつ集落があった。弥生時代の遺跡の発見はない。四世紀代の古墳時代前期の遺跡としては西地総田にしちそうだ遺跡・東地総田遺跡があり、東海地方の土器の系譜をもったS字状口縁甕形土器の盛行がみられた。蜻蛉とんぼ遺跡では方形周溝墓が発掘されている。古墳は蜻蛉遺跡で円墳の周溝の一部が発掘されているだけだが、「風土記稿」には多くの古墳のあったことを思わせる記載がある。奈良・平安時代の遺跡には西地総田遺跡・蜻蛉遺跡が知られ、西地総田遺跡では「南家」と墨書された平安時代の土器が出土している。蜻蛉遺跡では井戸跡が発掘され、底面から九―一〇世紀代の灰釉陶器が出土した。律令制下では古綾瀬川以西は足立郡、以東は埼玉郡に属した。東境を流れる古利根川は武蔵・下総両国の境を成していたと推定され、近世初期の武蔵国葛飾郡成立までは武蔵国の東端に位置していた。

〔中世〕

鎌倉時代には埼玉郡域は伊勢外宮領大河戸おおかわど御厨内八条郷に属したとみられ(「吾妻鏡」建暦三年五月一七日条)、綾瀬川(古綾瀬川)西岸地域は鎌倉鶴岡八幡宮領矢古宇やこう郷に含まれていたらしい(承久三年八月二日「関東下知状」鶴岡八幡宮文書)。建長八年(一二五六)六月二日の関東御教書(吾妻鏡)で奥大道(鎌倉街道中道)の警固を命じられた沿道の地頭らのうちに、矢古宇右衛門次郎の名がみえる。室町期には綾瀬川流域に鎌倉円覚寺塔頭黄梅おうばい院領淵江ふちえ郷が成立していた(応永四年七月二〇日「足利氏満寄進状」黄梅院文書)。戦国期には同郷は岩付太田氏の支配を経て小田原北条氏の支配下に入っており、旧埼玉郡域も天正一八年(一五九〇)まで同氏支配の下に置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「草加市」の意味・わかりやすい解説

草加〔市〕
そうか

埼玉県南東部,綾瀬川中川の沖積地にある市。 1955年草加町,谷塚 (やつか) 町,新田 (しんでん) 村が合体,同年川柳 (かわやなぎ) 村,56年八条村の一部を編入して,58年市制。中心市街地の草加は江戸時代には奥州街道宿場町および市場町として栄えた。 1899年東武鉄道が開通したが,JR東北本線から離れていたこともあって,染織業,「草加せんべい」製造業,皮革工業などは伝統を受継ぐことができた。 1960年代に草加・草加八潮の工業団地が形成されて,東京からの工場進出が著しくなり,製紙を中心に工業都市の性格を強めた。工業地域化とともに市の中央を南北に通る東武鉄道伊勢崎線,国道4号線の沿線には松原,新栄町,旭町などの大規模な住宅団地が建設され,宅地化も著しい。北部を東京外環自動車道が通る。面積 27.46km2。人口 24万8304(2020)。

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