朝日日本歴史人物事典 「里見忠義」の解説
里見忠義
生年:文禄3(1594)
江戸前期の安房の大名。義康の長男,幼名梅鶴丸。高源院と号す。慶長8(1603)年,父の死により10歳で里見家を継ぐ。同11年将軍徳川秀忠の前で元服,従四位下に叙任。同16年小田原城主大久保忠隣の長男忠常の娘を室とする。しかし同19年大久保忠隣事件に連座,改易。元和1(1615)年伯耆国倉吉の地3万石を与えられることになり,現地に赴くが実際は配流同然であった。同地で病死,29歳。ここに房総の里見家は絶えた。これは徳川氏による江戸の喉元に位する外様系大名に対するとりつぶし策にほかならない。
(川村優)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報