里見忠義(読み)さとみ ただよし

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「里見忠義」の解説

里見忠義 さとみ-ただよし

1594-1622 江戸時代前期の大名
文禄(ぶんろく)3年生まれ。里見義康長男。慶長8年安房(あわ)(千葉県)館山(たてやま)藩主里見家2代となる。大久保忠隣(ただちか)の孫娘を妻としたため,慶長19年忠隣の失脚にともない改易処分となり,伯耆(ほうき)(鳥取県)倉吉にうつされた。元和(げんな)8年6月19日死去。29歳。無嗣のため同家は除封となる。幼名は梅鶴丸。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の里見忠義の言及

【伯耆国】より

…久米・河村2郡は幕府直轄領とされ,倉吉に派遣された代官山田直時(五郎兵衛)が支配した。1591年安房国から里見忠義が倉吉に配流され,その周辺の地約4000石を与えられたが,1617年(元和3)池田光政が鳥取城主として入封。因・伯両国32万石を領治したので,彼に預けられ,22年死没した。…

※「里見忠義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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