江戸幕府初頭の重臣。はじめ新十郎忠泰。治部少輔,相模守。三河国上和田郷に生まれる。忠世の子。1563年(永禄6)三河一向一揆のとき徳川家康の近習に登用される。徳川氏の5ヵ国領有時代の諸合戦に軍功があり,家康の旗本を指揮する部将となるが,軍事のみならず分国の国政・外交の要職にもあった。88年(天正16)豊臣秀吉の申請で従五位下治部少輔となった。94年(文禄3)父忠世の遺領を合わせ相州小田原6万5000石の大名となる。関ヶ原の戦では本多正信とともに秀忠軍の指揮者で,のち江戸政権の実力者となった。ところが忠隣は,1614年(慶長19)キリシタン禁制実施のため京都に出張中,突然,幕命により所領を没収された。理由は幕府に無許可の私的婚姻によるが,本多正信との対立が原因といわれ,豊臣方と親しい関係にある忠隣を失脚させる必要からであった。忠隣は近江国栗太(くりもと)郡中村郷に蟄居した。
執筆者:煎本 増夫
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(大野瑞男)
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江戸幕府初期の譜代(ふだい)大名。幕閣の実力者でのち失脚。三河国(愛知県)上和田村に生まれる。幼名新十郎。父は徳川氏の五か国領有期に家康の旗本部将で活躍し、遠江(とおとうみ)二俣(ふたまた)城主となった忠世(ただよ)である。忠隣は、11歳のとき家康の近習となって以来、三方ヶ原の戦いのほか諸戦に軍功を重ね、一方徳川氏の政務には「奉行(ぶぎょう)職」として参与した。関東入国後は幕閣に列し、2代将軍秀忠(ひでただ)(江戸政権)付属の重臣となった。父の遺領小田原城6万5000石を継ぐ。1613年(慶長18)12月、キリシタン禁令で京都に出張中、改易となる。表向きの理由は幕府に対する無届婚姻だが、実際は、忠隣と並ぶ実力者本多正信(まさのぶ)およびそのバックにある家康の駿府(すんぷ)政権との確執、忠隣の庇護(ひご)した大久保長安(ながやす)が死後に陰謀ありとされた事件との関連、忠隣と豊臣(とよとみ)氏との親近など複雑な事情がある。忠隣は近江(おうみ)国(滋賀県)栗本(くりもと)郡中村に蟄居(ちっきょ)し、5000石を与えられた。のち同国佐和山(さわやま)城下の石崎に移り、道白と称す。
[煎本増夫]
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…相模国(神奈川県)足柄下郡小田原に藩庁を置いた譜代中藩。1590年(天正18)大久保忠世が小田原4万石を領したのに始まり,忠世,忠隣(ただちか)の2代に検地の実施,酒匂(さかわ)川大口堤の修築,酒匂堰の開削等に意を注いだが,1614年(慶長19)忠隣改易によって城は番城,領地は幕府代官が預かった。その後阿部正次が一時在城した後,32年(寛永9)老中稲葉正勝が下野国真岡より移封(8万5000石),その子正則が老中のかたわら藩領経営に全力をあげ,小田原藩政の基礎を築いた(10万3000石,後11万3000石)。…
…〈ころび〉とはキリスト教信者が棄教して仏教徒となることを言う。起源は1614年(慶長19)キリシタン総奉行大久保忠隣が京都で信者を俵責めにした際,〈いざころべ〉(《吉利支丹物語》)と棄教を強要して請人(うけにん)手形をとったのが始めといわれる。35年(寛永12)から京都や長崎などで〈南蛮誓詞〉または〈きりしたんしゅらめんと〉とよばれる転書物(かきもの)が徴収された。…
※「大久保忠隣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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